Interview_suda of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

HOME > Interview_suda

須田和博 (クリエイティブ・ディレクター)

【自主製作映画について】
望月:須田さんは1985年にぴあフィルムフェスティバルで受賞されていますね。この時はまだ就職されていないですよね?

須田:まったく就職前ですね。当時はまだ18歳でしたから。高校三年の時に8ミリフィルムの自主映画を作って、インディーズ映画の登竜門だった「ぴあフィルムフェスティバル」に応募したんです。受賞の通知を貰ったのは5月で、多摩美に現役合格する事が出来ず浪人している時でした。大学不合格でがっくりしている時だったんですけど、この賞を頂けたおかげで何とかモチベーションを保つことが出来ました(笑)。この賞は自分にとって出発点ですね。
IMG_1356.JPG
望月:元々は映画を作りたかったんですか?

須田:子どもの頃は漫画少年で、ドラえもんが好きで藤子不二雄に憧れて漫画を書いてました。そして小学高学年から中学生の頃にアニメブームがあって、宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999、ガンダムなんかが流行ったんですよ。で、高校に進んだら映画研究同好会というそれまでは接したことのない映画青年の巣窟のような場があったんです。僕は全然映画とか分からなかったんですけど、そこに入ったことですごく影響されて前衛映画のようなものにかぶれていったんです。僕はやりだすと一生懸命やる性質なので、映画制作に夢中になりました。映画のカット編集って、詰めれば詰めるほど良いものになるんですね。8ミリフィルムってありがたいことに35ミリフィルムと同じようにカット割りを詰める事が出来て、しかも繋いだ後に納得いかない場合にはもう一度貼り直す事が出来るんですね。学生なんですけど1フレーム単位で「このカットはこのタイミングがベストだ」と細かく編集して映画を作ってましたね。

【多摩美への進学】
望月:映画青年だった須田さんは多摩美に進学して、グラフィックデザインを学ばれるんですね。グラフィックを学ばれるうちに広告に興味を持つようになったのですか?

須田:広告に興味は無かったです(笑)。ウールマークの名作広告を作った中島祥文さんというアートディレクターが居るのですが、その方が現役バリバリの時に三年間だけ多摩美に教えに来てくださっていて、僕はラッキーにもその授業を受けることが出来たんです。中島クラスの卒業生には僕の一つ上に佐藤可士和さんなどが居るのですが、結構スパルタな授業で、僕はその時に「広告とはこういうものだ!」ということを叩きこまれたんです。とはいえ、広告業界に就職したいという熱意は無くて、そもそも就職そのものへのリアリティもありませんでした。「なんだかなあ、自分」と思ってましたね。そんな時に学内選考が始まりました。今の状況はわかりませんが、当時の多摩美は電通か博報堂の、どちらかしか受けてはいけなかったんですね。あまりにも多くの学生が受けるので、企業側への迷惑や混乱を避ける目的の制度だったと思うのですが。しかし当時の僕は電博と言われても何をやっている会社なのかすら良くわかっていなくて、どちらか選べと言われても困ってしまったんです。そこで図書館で広告年鑑を見てみたんですね。その時に、としまえんの広告を大貫卓也さんという人が作っていて、大貫卓也さんという人は博報堂に居るんだということを知ったんです。

望月:としまえんの広告は名作ぞろいでしたね!特に85年から90年ぐらいにかけてのものは、風刺が効いたユニークな表現が多かったですよね。

須田:僕はとしまえんの広告が大好きだったんですよ。僕は新潟から東京に出てきて、必ず「ぴあ」を買ってたんですけど、毎号としまえんの面白い雑誌広告が出ていて。あと多摩美って八王子の山奥にあるんですけど、西武線とかに乗るとやっぱりとしまえんの面白いポスターが貼ってあって。そういうのを見る度に「いいなあ」っていつも思ってたんです。だから電博のどちらかを受けるなら、としまえんの広告を作っている大貫卓也さんが居る博報堂が良いなと思って学内選考に申し込んだんです。本当に博報堂を受けた理由ってそれだけだったんですけど、ラッキーなことに会社に入れて頂くことが出来て、二年目には大貫さんのアシスタントに付くことが出来、カップヌードルの「hungry?」のプロジェクトにも参加させて頂くことが出来ました。

【楽曲紹介1】
望月:このあたりで思い出のCMソングをご紹介頂けますでしょうか。

須田:1986年のコーセー「ミスティーフェイス」のキャンペーンソングで、ポータブルロックの「春して、恋して、見つめて、キスして」を。当時の化粧品のCMソングは本当に名曲揃いだったんですよね。「君のひとみは10000ボルト」とか「君は薔薇より美しい」とか。そんな中、ふと思い出したのがこの曲で。ポータブルロックはピチカートファイヴの野宮真貴さんがピチカート加入以前に参加していたユニットなのですが、この曲は鈴木慶一さんと鈴木さえ子さんの共作でして。高校生の頃、ムーンライダースが好きだったこともあり、紹介させてもらいたいと思います。

#1「春して、恋して、見つめて、キスして」ポータブルロック


#「君のひとみは10000ボルト」


#「君は薔薇より美しい」


【新人時代】
望月:須田さんは大学卒業後、博報堂にアートディレクターとして入社された訳ですが、仕事は楽しかったですか?

須田:自分はデザイナーとしては出来が悪かったと思うのですが、企画のアイデアラフだけはいっぱい書いたんですね。新人は一つの打ち合わせにつき100案書いてこいというのがお約束で、博報堂の試験も一つのお題につき100案書くというものだったりしたのですが、僕はとにかく数を出して。打ち合わせでウケるぞと。新人の案なので採用されて世の中に出るものにはめったにならないのですが、少なくとも「まず打ち合わせでウケないようでは駄目だ」と思ってました。そこが自分の広告キャリアの始まりで、当時は打ち合わせで案が先輩にウケたら自分の中では勝ちでした。だからとにかく案を出してましたね。紙一枚に絵とコピーを書くのですが、それを打ち合わせまでに沢山ためてました。

望月:そうして経験を重ねた後、大貫さんのチームに入られたんですね。

須田:配属された制作室の反対側の端に大貫さんが居らしたんですよ。
僕は大貫さんに憧れていたので、学生時代の作品を持っていって見てもらったりしました。大貫さんには「デザイン下手だね、君」と言われたりしたのですが(笑)。
しかしデザインは下手だけど面白いところがあると思って頂けたのか、そのうちに「試しにやってみるか」と声を掛けてもらえるようになって。そうしてラフォーレのグランバザールの案件の際に、チームに入れて頂きました。その企画会議が最初でした。一個のポスターを作る時って100案ぐらいレイアウトを作って、どのレイアウトが良いか都度都度検証するんですね。だから僕もほとんど採用される事は無いのですがレイアウトを作って持っていって。それを大貫さんに見せるのが、本当に怖かったんです。
僕はデザインは下手でしたけど、そういった修行の場をいただけて本当に幸せでしたね。

【「hungry?」で感じた不思議な感覚】
望月:須田さんは日清カップヌードル「hungry?」キャンペーンのプロジェクトチームに参加されていますよね。

#日清カップヌードル「hungry?」キャンペーン


須田:当時、大貫さんは10年目ぐらいのまだ若いアートディレクターだったのですが、若いメンバーに一つ任せてみようということで集められたのが僕を含めた当時5年目以下の本当に若いチームでした。そうして後に完成したのが「hungry?」です。あのコマーシャルが元旦にオンエアされたのを見た時の不思議な感覚というのは今でも忘れられないですね。自分が参加していたにもかかわらず「これは広告なんだろうか?」と思いました。

望月:確かにそういう感覚はありましたね。今までに見たことの無いものを見たような不思議な感じがしました。

須田:あのコマーシャルは元旦にオンエアが始まったんですけど、テレビで見た時に浮いていたんですよね。あの時の不思議な感覚というのは忘れられない広告体験の一つですね。

【CMプランナーへの転身】
望月:須田さんは途中でアートディレクターからCMプランナーに転身されたんですね。

須田:デザイナーとして仕事を始めて、大貫さんが博報堂を辞めた後に1年間ぐらいとしまえんの広告をやらせてもらったりして、一生懸命紙のデザインをやっていたんですよ。
そんな中、たまたま上司と廊下ですれ違った時に「お前、CMに興味あるか?」と聞かれて、僕は映画をやっていたので「興味ありますよ」と言ったらすぐ異動の辞令が下されて(笑)。僕はそれがすごくショックだったんですよ。紙を辞めるつもりなんて全然無かったですし。
IMG_1358.jpg
ただ、今自分のキャリアを振り返ってみるとそこでアートディレクターを辞めることになったのはすごく大きな収穫だったなと思いますね。紙から解き放たれたことで「何でもアリなんだな」と思えるようになりました。結局CMを7年やった後、僕はWEBに移ったのですが、あの時アートディレクターからCMに移してもらったことが、その後のキャリアを決定づけたのかなと思います。

望月:CMプランナーの仕事は大変でしたか?

須田:CMはすごい好きでしたし、映画を作っていたので映像を作ることには何の違和感もありませんでした。ただCM特有の職域の狭さには違和感を感じるようになりましたね。CMプランナーは15秒なら15秒のCMをどういうものにするかを企画するのが仕事ですよね。

望月:いわゆる企画コンテを書くのが、CMプランナーの仕事ですね。

須田:そうしてCMプランナーが作った企画コンテを、素晴らしいフィルムに仕上げるのがフィルムディレクターの仕事ですよね。ただ、僕はアートディレクターからCMに来た関係と昔自主映画をやっていた関係があって「何で自分で仕上げちゃいけないのかな?」と思ったんですよ。

望月:企画コンテを作った後の演出コンテまで気になってしまったんですね。

須田:やっとCMプランナーの仕事を覚えて何本か納品し始めた頃「どうして自分の考えたこの企画が自分の想像と違うものになってしまうんだろう?」と気になり始めたんです。「こんな企画じゃ無かったはずだ!」と(笑)。

望月:自分ならもっと面白いものに出来るはずだ!と。

須田:今思えば青臭かったのかもしれないですけどね。やはりプロフェッショナルの人達が「この企画ならこうした方が面白くなる」と仕上げてくれていたのだと思いますし。単に自分が何にも知らない若造だったというのもあると思います。
ただ「企画の段階じゃこんなはずじゃなかったのにな」という思いが段々とたまっていってしまって。そんな中、フィルムディレクターをCDに付ける予算が無い仕事に出会ったんです。そこで「演出もやっていいですか?」と聞いてみたら「良いんじゃない」と割と軽くOKが出て。実際のところ写真のアートディレクションをする感覚でフレームを決めて、セットのデザインを決めて、台本は書けるし、後はタレントさんに入って頂いてという感じで何の問題も無くフィルムを作る事が出来たんです。一本作ってみたらいけるなと思って、それから2年ぐらいはCM演出を面白がってやってましたね。

望月:そうして手掛けたコマーシャルでACC賞とTCC新人賞を受賞されていますね。

須田:のびやかにやってみたことが評価されたので「あ、やっていいんだ」と思いましたし、ある意味自分の能力も「信じて良いんだな」と思えましたね。

【インタラクティブ領域への異動】
望月:須田さんはCMプランナーを経て、インタラクティブ領域へと移られたんですね。

須田:飽きっぽいんですかね(笑)。

望月:ははは(笑)。

須田:アートディレクターを7年やった後、CMに移って。そうしてCMを7年やった後、インタラクティブに移ったんですよ。だから、自分では7年周期説と呼んでいるんです(笑)。インタラクティブに移る前、1年ぐらい行き詰まりを感じて、悶々としていた時期があったんですよ。「このままCMやっていて、自分に何が出来るんだろう?」と。

望月:それは時代的に面白い企画が通りにくくなったということですか?

須田:とにかく「なんか不自由だな」と感じるようになって。もっと自由に表現が出来ないかと思っていた頃、ちょうど世の中では「デジタルシネマ」というものが勃興してきていて。
2004年頃だったと思いますが、After EffectsやPremiereでデジタル編集をしてフットワーク良く映像を作る人達が現れてくるのを見ていて、本当にビデオカメラ一台とマック一台で映画を作る人が出てきたんだなあと思って。だから僕も「ああいう軽やかさで映像を作れないものかな」と、小型のビデオカメラでどうやったらムービーのトーンが出せるのかといったことを研究していたんですよ。
IMG_1359.jpg
そういったことが影響したのか「インタラクティブクリエイティブ部員募集」という公示を見た時に、僕はウェブのキャリアゼロだったし、どうやって作るのかすらわからない「ずぶの素人」だったんですけど「ここはひとつ行ってみるか」と思ったんです。CMプランナーのキャリアは勿論、マス広告制作者としてのキャリアも捨てて、ウェブに行こうと。そうして配属決定したのが2005年の1月1日でした。制作の友達に「お前、ウェブなんか行って何するの?」とすごく心配されたのを今でも憶えてますね。たった6年前のことなんですけどね。

望月:その頃は今に比べるとまだまだウェブの地位が低かったですよね。

須田:誰もウェブが広告媒体になるなんて思ってませんでした。

望月:マスのおまけのような感じでしたよね。

須田:そうですね。Youtubeもまだ無かったですし。ウェブで動画が見れるというのもまだまだレアで、「ウェブに表現の余地なんか無いんじゃないか」というぐらいに思われてました。

【楽曲紹介2】
望月:このあたりでもう一曲ご紹介頂けますか?

須田:「アラウンド・ザ・ワールド」を。原曲はダフト・パンクで、松本零士先生の「銀河鉄道999」で育った世代としてはダフト・パンクの被り物のかっこよさに惚れ惚れしていたんですけど、今から掛けるのはセニョール・ココナッツ版の再解釈されたバージョンです。

#2 セニョール・ココナッツ「アラウンド・ザ・ワールド」


【新しい形の広告】
望月:インタラクティブ領域に移られて、まずはどんなお仕事をされていたんですか?

須田:僕はウェブサイトの作り方が全くわからなかったんですよ。でもそこからキャリアを作っていかなきゃいけなかったので、とりあえず「何でもやります!」という感じでした。そんな中、CMプランナー時代の馴染みの営業がとあるコンビニエンスストアの夏のキャンペーンの案件を持ってきてくれて。僕はその企画でコマソンを作ったんですね。夏の音頭のようなものですね。音頭のmp3をウェブサイトで公開して、コンビニの店内放送でも掛けるというミニマムなクロスメディアのようなことをやったんです。
IMG_1352.JPG
とにかく僕としてはウェブサイトの作り方がわからないのでアートディレクター時代のスキルとCMプランナー時代のスキルを総動員して出来ることをやろうと。結果としてはその歌が非常に喜ばれたんです。今でも使ってもらえてるらしいです。そういう意味では音楽とのご縁は深くて、一曲目に掛けた化粧品のコマーシャルソングなんかは学ぶところがとてもあるんです。
やはりウェブ側に居る人間としては「人が広めてくれてナンボ」というところが大きくて。キャンペーンのサイトを見て「これいいよ」とか。愛されて。使ってもらえてナンボ。僕はそれを自分の書籍のタイトルにもした「使ってもらえる広告」という概念にしました。化粧品キャンペーンソングの名曲なんかも未だに愛されてカラオケに行くと歌われてたりしていて、文化として残ってますよね。すごく羨ましいし、そういう文化になるものが作りたいと思いますし、どうして今作れないんだろうと考えてしまいます。

望月:デジタルが出てきたことで今までと一番変わったのはバイラルですよね。これまで口コミは直接人と会わないと起きませんでしたが、今はネット上で出来ます。

須田:世界中が一つの町内、一つのお茶の間になってますよね。オンラインでぺちゃくちゃぺちゃくちゃと。二曲目に「アラウンド・ザ・ワールド」を選んだのはそういう理由もあるんです(笑)。本当に世界は一つなんだと思いますね。

望月:須田さんは「mixi年賀状」のキャンペーンを手掛けていらっしゃいますね。

#「mixi年賀状」のキャンペーン
Unknown.jpeg

須田:ウェブに来てから色々なキャンペーンサイトを作らせてもらいましたが、この案件は後に、とても「新しい形の広告」だったのだなと気付きました。mixi年賀状は相手の住所や本名を知らなくてもシンパシーを感じあっているマイミクさん同士が、紙の年賀状を贈りたいと思った時にそれを実施できるサービスです。これは一見、期間限定でmixi内に増設されるサービスのように見えますが、実際は日本郵便さんの広告です。
つまり若い人に「紙の年賀状を出してください」と訴求するのではなく、「紙の年賀状を出しやすくする」サービスを提供することで、若者が紙の年賀状を出してくれたら良いなという狙いの広告だったんです。やっていた時はただ一生懸命、このサービスが皆に「使ってもらえる」ようにコツコツがんばってだんですけど、後に振り返ってみて、これがいかに新しい形の広告だったかということに気付かされました。

望月:mixi年賀状は2009年東京インタラクティブアドアワードグランプリ、カンヌ国際広告賞メディア部門銅賞を獲得しました。

須田:本当にびっくりしました。そんな風に評価していただけるなんて全く予想もしていなかったので。

【エンゲージメントとは】
望月:現在須田さんが所属されている部署は「エンゲージメントクリエイティブ局」という変わった名前の局ですが、そもそも「エンゲージメント」というのはどういった意味なのでしょうか。

須田:「エンゲージメント」というのはここ3年から4年ぐらいの間に広告界に沸き起こってきた概念で「露出」ではなく「関与」を重視するというものです。
それ以前は例えばテレビCMがどれだけ露出したかをカウントしていたのですが、露出しても届かないのではないかという疑問があり、むしろ気持ちがちゃんと繋がっているかとか、能動的に広告に絡んでくれたか。ということを重視すべきではないかという考え方で、言われているのが「エンゲージメント」です。それを部署名に掲げているのが「エンゲージメントビジネスユニット」であり、その中の「エンゲージメントクリエイティブ局」です。

望月:デジタル領域は全てこの中に集約されているのですか?

須田:デジタルは色々なところに遍在してます。ただ、デジタルを核に顧客との絆を作っていこうとしているのが、エンゲージメントビジネスユニットです。それ以前は事業を推進するビジネスセンターという言い方でしたが、発展的に成長してきたという感じです。

【今後について】
望月:須田さんは震災以降、心境の変化などはありましたか?今後、やっていきたい仕事などあれば教えてください。

須田:多くの日本人が同じことを感じたと思うのですが、震災に直面した時、正直「いつまで生きていられるかわからないんだな」と思いました。震災の日、たまたまカミさんと別々のところに居て、連絡がつかなくなったんですね。Twitterで消息を追いながら、テレビでものすごい震災の映像を見ていて「こんなことってあるんだ。人間っていつ死んでもおかしくないんだ」と思って。
だから、時間を大事にしようと思いました。何時死んでも後悔しないように仕事をしようと。東京だけの仕事に拘らず、日本中どこでも仕事があるなら行こうと思いますし、世界でも仕事があるなら平気で出て行ってもいいんじゃないかなと思ってます。あと、ウェブに来て感じるようになったことですが、ウェブ側のイケてる人に会うと考え方が広告の中にとどまっていないんですよね。
IMG_1360.jpg
やはり広告って狭いもので、ウェブ側の人はむしろデジタルサービスやデジタル事業といったものに目が向いているんですよ。だから僕ら広告の人間も、広告のスキルを活かしきる形で広告の世界の外に出て行っても良いんじゃないかと思いますね。だから、そういったことが次の7年で出来ると良いなと思います。7年周期説なので。(笑)

望月:映画監督業は復活しそうですか?(笑)

須田:与太話としては、やっぱりアニメを作ってみたいですね(笑)。子どもの頃憧れていたものには、いつか着手したいです。

望月:これからも素敵なキャンペーンを作っていってください。本日のツタワリストはクリエイティブディレクターの須田和博さんでした。ありがとうございました。

須田:ありがとうございました。

IMG_1379.jpg

TODAY'S EISUKE MUSIC SELECTION