Interview_sugiyama of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

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杉山知之 (デジタルハリウッド大学 学長/工学博士)

望月:デジタルハリウッドはデジタル業界、CG業界に沢山の卒業生を送りこんでいますね。

杉山:そうですね。今年の3月末で、卒業生は5万人になりました。
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望月:5万人ですか!もはやデジタルハリウッド抜きでは、これらの業界は成立しないのではないかと思わされます。

【音楽への目覚め】
望月:元々、杉山さんは音楽好きだったそうですね。

杉山:1964年の東京オリンピックの年に、僕は小学5年生だったんです。まだコンピューターが無かった頃ですね。その頃にラジオから流れてきたのが、ビートルズだったんです。それがきっかけで音楽に目覚めましたね。

#The Beatles
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望月:やはりビートルズには熱狂しましたか?

杉山:むしろ、怖かったですね。ビートルズを聴いたら、不良になると思ってましたから(笑)

望月:ははは(笑)

杉山:友達のお姉さんがビートルズのシングルを買ったんです。「これは!」と思って、他の家族がいない日にその友達の家に忍び込んで、一緒にビートルズを聴きました。それはゾクゾクするような経験でしたね。ポール・マッカートニーのシャウトに「おお!」となり、ジョン・レノンの歌声にビックリみたいな感じで。

望月:そうして段々と音楽に染まっていったんですね。

杉山:僕が中学一年生の時にビートルズが来日したんです。一方でその頃、日本で流行っていたのがカレッジ・フォークソングというもので、大学生が皆、ピーターポール&マリーなどを聴いていたんです。そういったものの影響を受けて、電気楽器は高くて買えないので、まずはヤマハの3000円から5000円ぐらいのギターを買いました。

#ピーターポール&マリー
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望月:その頃、杉山さんはどんなミュージシャンがお好きでしたか?

杉山:当時の僕は、まだ音楽のジャンルとかがよく分かって無かったんですよ。ビートルズの4曲入りのEPを買ったりはしていたのですが、LPはやはり高くて買えなかったんです。

望月:LPは高かったですよね……。

杉山:ビートルズの他に好きだったミュージシャンと言えば、セルジオ・メンデス&ブラジル’66でした。初めて聴いた時に「これはカッコイイ音楽だな!」と思いましたね。

#セルジオ・メンデス&ブラジル’66
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だから当時はビートルズとセルジオ・メンデスを交互に聴くような感じでした。後はR&Bのようなものも好きでした。「黒人ばかりでやる音楽もあるんだ!」というような感じで。ただ、何よりも大きかったのは1967年にサンフランシスコで始まったサイケデリック・ミュージックでした。ジェファーソン・エアプレインの「あなただけを(Somebody To Love)」の声とサウンドにはやられましたね。以来、この歳になるまでジェファーソン・エアプレインは全て集めています(笑)

#「あなただけを(Somebody To Love)」ジェファーソン・エアプレイン

望月:バンドをやったりはしましたか?

杉山:高校の頃になると、アマチュアのロック・コンサートが盛んで、友達もオーガナイザーをしてました。僕もあちこち行ったのですが、やはり上手い人が沢山いた訳です。「このバンドはボーカルが凄いな」「このギターは凄い!」とか。そこで上手い人ばかりを集めて「トモ杉山&ブルース・カンパニー」という、今思うと「何だそれ!」みたいなバンドをやってました(笑)上手い人を集めるのが好きだったんですよ。

望月:その頃からオーガナイズするのが好きだったんですね。

杉山:そのままプロの道に行った友達も多かったです。ただ、中核を成していたのが所謂中流家庭のメンバーだったので、受験シーズンになるとバンドの活動が出来なくなっていったんです。そんな中、僕は高校3年の12月までコンサートをやっていたので、当然のごとく一浪になりました(笑)

【建築学科での大学生活】
望月:大学では何を専攻されていたのですか?

杉山:大学は日本大学理工学部の建築学科というところに入りました。音楽好き、オーディオ好きという流れもあったのですが、一方で「建築って面白いなあ」というのは思っていたんですよね。恐らく「デザインが好き」という軸が自分の中にはあったんだと思います。そこで「建築・設計屋になりたい」と思って、建築を選びました。

望月:すると大学ではずっと建築を学ばれたんですね。

杉山:設計・製図だけは一生懸命やりました。ただ、他は全然で。1週間の内、大学に居たのが1時間以内というような感じでした(笑)

望月:残りの時間は一体何をしていたんですか?(笑)

杉山:それはもうブラブラと。普通の男ですから、デートしたりとか。後はバンドとクラブ活動を。クラブ活動も音楽関連でした。

【コンピューターとの出会い】
望月:大学卒業後は、就職されたのですか?

杉山:いえ、院に残って研究をつづけたんです。大学4年の時に、コンピューターとの出会いがあったんです。僕は建築音響という研究室に入っていたのですが、その研究室は音楽ホールを設計する事を一つの目標に、実際に案件を請け負って、建築事務所と一緒に設計していたんです。そして、その工程の一つとしてコンピューター・シミュレーションがあって、僕はその時に3DCGの基礎のような事を学んだんです。
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勿論、当時は今のようなコンピューターは無かったので、大型コンピューター用のプログラム言語を習って、院生と一緒にプログラムを書いていったのですが。それから、音楽ホールで録音した音を解析するという作業もしました。「ちゃんと設計したように音が響いているのか」「どのように反響すると、人間は音を美しいと感じるのか」という事を研究するためには、音をデジタル化して分析する必要があったんです。

望月:その当時、既に「デジタル化」という概念があったんですか?

杉山:あったんですよ。テープレコーダーで録音した音を、大型冷蔵庫ぐらいの大きさの機械でデジタルに変換していたんです。デジタルと言っても、変換された音は2分の1インチぐらいの大きさのテープに数字で記録されるんです。しかも古い機械だったので、数字も+999から-999の値にしかならないんです。それをオーバーしないように低くなり過ぎないようん、丁度良く調整しながら音を作っていました。今でいうダイナミック・レンジの調整のような作業ですね。デジタルと言ってもアナログっぽい作業で、僕はそれが割と得意でした。

望月:音楽好きと建築好きがそこで融合したんですね。

杉山:遊びの延長のような感覚だったのですが、「研究を続けたい」と思いましたね。そこで大学院に進む事を親父に相談してみたら、喜んで賛成してくれたんです。そこで大学院に進みました。

【助手生活と研究】
望月:大学院を卒業すると、教授を目指すイメージがあるのですが、杉山さんはどうでしたか?

杉山:大学院を卒業した後は、一度就職をするのが割と普通なんですよ。僕も一応建築事務所に就職が決まっていました。ところが院2年の2月に、教授から「助手の口が空いたから、お前がなれ」と言われまして。「はい」としか言えない空気で、思わず「はい」と言ってしまいました(笑)そうして、助手にさせてもらいました。決まっていた会社を間際で断ったので、こっぴどく会社の人からは怒られましたね。

望月:助手は長く続けられたのですか?

杉山:8年間、助手をやりました。教授の手伝いをしながら、残りの時間は自分の研究をして。アカデミックの道に進んだ以上はどこかで博士号を取らなくてはいけないのですが、博士号を取る上で一番大事なのは「他の人がやっていない事」を研究する事なんですよ。つまり、オリジナリティーです。
そこで、僕は「リスニング・ルームの音響」というのを研究しました。リスニング・ルームと言っても、僕が対象としたのは6畳から8畳ぐらいの空間で、海外だったら物置程度のスペースです。似たような研究は海外にも無かったですし、「これはオリジナリティーがあるだろう」という事で、実際に70か所近くオーディオマニアの家庭を回って測定をしました。また、夏休みの間には、大学の小さな部屋でありとあらゆる音の測定もしましたね。

望月:究極のオーディオマニアですね(笑)

杉山:それはもう、かなり耳は鍛えられましたよ(笑)

【楽曲紹介1】
望月:思い出のCMソングを一曲、ご紹介頂けますか?

杉山:ギャツビーのCMソングを選んでみました。この曲はスタイリスティックスの曲ですよね。

望月:この曲にはどのような思い出があるのですか?

杉山:この曲を初めて聴いたのは高校生の時だったのですが、当時僕はハードにロックをやっていたんです。ツェッペリンをコピーしたりとか(笑)

#レッドツェッペリン
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そんなある日「パーティーがあるんだけど、来ない?」と友達に誘われて、行ってみたんです。すると、そこには見たことも無いような良いスーツを着た男の子や、お洒落なドレスを着た女の子が沢山居たんですよ。こっちはジーパンにTシャツで、長髪なのに(笑)
そんな中、流れてきた曲がこれで、彼らはこの曲に合わせて華麗に踊る訳です。当時の僕は「ロックで世界が変わるんじゃないか」と思っていたんです。だから、その様子を見て「こいつら、ただ楽しんでやがる」と思いまして(笑)「こんなきらびやかな世界があるんだな」と思いましたね。

#1 ザ・スタイリスティックス「愛がすべて」


【MITへの留学】
望月:そうして助手生活を続けていたある日、杉山さんの人生が一変する出来事があったんですね。

杉山:アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)に「メディア・ラボ」という施設があるのですが、1986年頃にそれの日本版を作るという計画が持ち上がりまして、そこに日大が参画する事になったんです。丁度、日本がバブルの絶頂期に向かう頃ですね。その計画というのは、千葉に三菱地所が持つ広大な未開発の土地があったので、研究所とホテルとゴルフ場を作り、そこを研究員が住む村にしようというものでした。さらに「海外から研究所を招こう」と、ミサワ・ホームを作った三澤千代治さんがアメリカに渡り、MITのメディア・ラボから「1000万ドルの基金を作ってくれれば協力する」という約束も取り付けていました。
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そうしてメディア・ラボの方から「日本人の研究員をメディア・ラボ風に育成しましょう」という申し出を受けたんです。三澤千代治さんは日大の理工学部の出身でしたし、日大が当時100周年だったので、MITのような学校と共同でプロジェクトを進めるには良いタイミングだったので、皆すぐに話に乗りました。ところが困ったのが人選で。まずは日大側で候補者の人選をする事になったのですが、どうも大教授というのは、手元の優秀だったり便利だったりするような助手は離したがらない傾向があるんですよ(笑)
だから86年の12月頃からMITのニコラス・ネグロポンテ所長による面接が始まったのですが、半年近く誰も決まらなかったんです。そこで翌年の6月頃、先に話したような僕の研究内容がメディア・ラボと近いのではないかという事で、僕が面接を受ける事になったんです。そうして実際に面接を受けたところ、その日のうちに合格が出たんです。そうして翌年の9月に渡米しました。

#ニコラス・ネグロポンテ
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望月:決め手は何だったんでしょうね?

杉山:渡米から半年ぐらい経った頃に、パーティーでニコラス・ネグロポンテに「他にも沢山面接を受けた人がいるにも関わらず、どうして僕を選んだんですか?」と聞いたんです。当時、僕は33歳だったのですが英語も喋れませんでしたし、まさか自分の人生にマサチューセッツ工科大学が関係してくるなんて夢にも思っていなかったので、僕にとっては正に青天の霹靂だったんですよ。
すると彼は「ああ、そんな事か」とつまらなそうな顔をして、「だって、面接の時ににこにこと笑っていたのはお前だけだった」と答えたんです(笑)

【MITで受けた刺激】
望月:MITではどんな事をされていたんですか?

杉山:元々のミッションが「日本版メディア・ラボを作る」というものだったので、12個あるグループのどれにアクセスしても良いという許可を受けていました。だから一応は「音楽と認識」というグループに属していましたが、それ以上に「何故、この研究をやっているんですか?」「この研究により、世の中にどんな良い事があるのですか?」というような事を聞いて回ってましたね。僕も色々な研究でコンピューターに触っていたので、多少は技術的な事が分かっていたんです。
メディア・ラボには物凄く細かい研究をしている人とかが沢山居たので、むしろ気になるのは「何のためにその研究をしているのか」という部分でした。だからどのグループに行ってもいいし、どの先生にも可愛がってもらえる環境というのは有り難かったですし、正に「血になり、肉になる」という感じでした。

望月:当時のMITにはネット環境はあったのですか?

杉山:現在一般的になっているようなインターネットはまだ有りませんでした。ただ、既にARPANET(アーパネット)というものが大学間同士、研究所同士では繋がっていて、当時はそれが段々と拡張されていく時期でした。だから、僕が言ったその日にまず教えてもらったのはログイン名とパスワードでした。「あとは掲示板で聞けば分かるから」と言って、トイレの場所すら教えてくれない(笑)

望月:ははは(笑)

杉山:僕はその日、泊まる場所が決まっていなくて。だから、貰ったログイン名とパスワードで掲示板にアクセスして、一生懸命英語で挨拶文と「泊まる場所がない」という事を書いたんです。すると、すぐに「今日だったらウチに泊まっても良いよ」と、会ったことも無い教授から返事が来たんです。電話をしたり、挨拶に行ったりするよりも早く電子的に繋がる経験をしたのは、この時が初めてでしたね。
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望月:それはある意味ではショッキングな経験だったのでは?

杉山:そうですね。何でもEメールと掲示板だったので。ある日「日本人にはセカンドネームが無いから、トモに付けてあげよう」と誰かが発言して、僕のセカンドネームをどうするか三日三晩、80通ぐらいメールが行き来したんですよ。そうして決まったセカンドネームが「モジョ(mojo)」というもので。そのセカンドネームはいまだにハンドルネームとかで使ってます。

望月:そうして3年間メディア・ラボで過ごされた後、帰国される訳ですね。帰国された後、日本版メディア・ラボは完成したのですか?

杉山:全然出来ていないです。まだ開発も始まっていないです。まずは研究所を恒久的に運営するために財団を作るという事になり、財団の認可を取らなくてはいけないと。一方、僕は僕で物凄い才能のある大学院生を何人か日本に招いて、御茶ノ水の日大の研究室の一角を借り、母体となる研究を始めてもらいました。そうして、92年ごろに財団が出来たんです。
ところがその時には完全にバブルが弾けていて(笑)大きな研究所を作るなんて話は完璧に凍結されてしまって、何も出来なくなってしまったんですよ。研究所のための財団はあるんですけれど、それは本当に最小限のもので、建物も無いし研究員も雇えない。そうして日大の側から「プロジェクトは終わったんだから、戻ってこい」という事で助手のまま戻らされたんです。そこで「自分が見てきたもので、何か出来る事はないか」ということで、その後、友達を集めてCGのプロダクションを作るという動きに繋がっていったんです。それが大体93年頃ですね。

望月:すると、完全に期待していたハシゴを外されてしまった訳ですね。そこから「自分で何かやってやろう!」と。

杉山:MITのメディア・ラボを見てきた訳ですし、日本でも「マルチメディア」という言葉が立ちあがっ
て来ていたので、最初は単純に「日大にマルチメディア学科を作れないか」と思ったんです。
ところが学内の先生たちを説得して回るのに、どうも2年近くかかりそうだと。30代の人間が60代の先生を説得して回る訳ですから、やはり大変な訳です。そうして仮に先生たちを説得できたとして、今度は新学科を設置するための文科省の許可が必要だと。その許可を得るためにも、当時は2年近くの時間が必要で。すると新学科を設置するためには4年の歳月がかかるわけです。そこからさらに新一年生が入学して、卒業するまでに4年かかる。すると、どんなに頑張っても8年後、2000年3月や2001年3月じゃないと最初の卒業生を世に送り出せない。
自分の感覚だと、その頃にはもう二山ぐらい新しい波がやって来そうな感じがしたんです。その時に初めて「株式会社で教育事業をやろう」という事を考えたんです。株式会社ならすぐに始められますし、認可も要らないですからね。

望月:そうして94年にデジタルハリウッドを設立されたんですね。

【楽曲紹介2】
望月:このあたりで「今の気分」ということで一曲ご紹介頂けますか。

杉山:僕の大好きなギタリストの和田アキラさんが弾いている、深町純さんの曲を。

#深町純          #和田アキラ
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深町純さんは昨年、惜しくも亡くなられてしまいましたが……。この二人とは大学院生の時に知り合いまして、家にも遊びに行ったりしました。僕がメディア・ラボに留学する事が決まった時、「頑張ってこい」と二人が僕だけのためにスタジオで演奏してくれた二曲のうちの一曲がこれでした。

#2 和田アキラ「THE NIGHT OF BLUES」

【デジタルハリウッド設立】
望月:杉山さんがデジタルハリウッドを設立されたのは1994年との事ですが、1994年というのはインターネットが広く使われるようになる正に直前の時期ですよね。

杉山:そろそろという時期ですね。本格的にインターネットが使われるようになるのは1995年からです。僕は研究をやっていた人間なので「そろそろ3DCGが家庭用ゲームに使われるようになりそうだ」というような情報とか、ブラウザが開発されて毎日毎日新しいホームページが出来ていく様子だとかを目の当たりにしていたんです。そういった世界を感じていたので、夜明け前に(事業を)やりたいなと思っていたんです。
デジタルハリウッドは元々は95年の4月に開始する予定だったのですが、実際にはそれよりも半年早い94年の10月にオープンしました。我々が集めたお金ではマッキントッシュを25台買うのがやっとで、1台は先生が使うので、学生用には24台を用意して、48人の学生2クラスで始めました。
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望月:そこからいまや総卒業者数が5万人を超える学校になっていく訳ですね。デジタルハリウッドは「専門学校」というイメージがあるのですが、実際には少し違うそうですね。

杉山:専門学校は、専門学校という学校法人でないと作る事が出来ないんです。デジタルハリウッドに関しては「専門スクール」という呼び方をしてはいますが、実際には株式会社が事業として教育事業をしているという位置付けで。元々は町の寺子屋のような雰囲気で始めたものなんです。

望月:その後、2004年に日本初の株式会社立大学院として、デジタルハリウッド大学院を設立されるんですね。

杉山:94年にデジタルハリウッドを作った時から「いつか大学院大学を作る」ということを宣言していたんです。何故かというと、人々がデジタルの世界に「凄い!」と群がると思ったからなんです。そうすると、10年近くは恐らく大混乱の時代が続くだろうと。そうして、その後は「基本的にこういう事は勉強しておいた方が良い」というように大学院レベルの研究や教育が整備されていくという風に思ったんです。だから「21世紀になったらデジタル分野の大学院を作る」と最初から言っていました。勿論、当時日本にはこういった分野の大学院はありませんでしたし、今でもあまり無いと思います。

【「デジタルならでは」の事】
望月:いまやデジタル・コミュニケーションというのは日常生活に無くてはならないものになっている訳ですが、そもそも「デジタル」というのは何なんでしょう。アナログなものをデジタルに置き換えていくという作業になるのでしょうか?

杉山:確かにそういった面はあると思います。例えばテレビのアナログ電波がデジタルになりましたというような事だと、これは置き換えですよね。ただ、僕はデジタルにおいては「デジタルならでは」の事が重要だと思っているんです。デジタルをたんに置き換えの技術であるという風に思って論争すると「電子書籍より紙の本がいい」というような話になってしまうんです。こういう議論は僕は不毛だと思うんです。当然、どちらにも良さがある訳ですから。
デジタル・コミュニケーションの一番の良さはやはり時空を瞬時に超える事が出来るという事ですよね。デジタルで記録されたものは、劣化しない訳です。だから、その人がその当時に表現した形のままに残るんですよね。また、誰かが例えばロンドンにある情報とブラジルにある情報の関連に気付いたらすぐにリンクを付ける事が出来ますよね。それも瞬時に。
こういった事はアナログでは中々出来ない事です。これは「ハイパーリンク」という概念で昔から言われている事です。
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また、デジタルの世界では「コピー」について色々言われていて、著作権の問題で特に音楽業界の人は大変な目に遭っていると思うんですが、僕は究極的にはこの世界にはオリジナルが一つあればいいという風に思っているんです。コンピューターにあるものは世界中どこからでも瞬時にアクセスできるのだとすれば、わざわざコピーする必要なんてないですよね。一つのものが何億とコピーされて、それが自分のコンピューターの中にあるという状況は、流れていく過程のほんの一瞬の様相に過ぎないんです。最近ではクラウド・サーバーというのが話題になっていますが、必要な時だけ見れれば良くて、コピーする必要はないじゃないかと。ますますそういった流れになってきているんですよね。だから、まだまだこの世界は変容していく時期にあるんですよね。

望月:デジタルにはデジタルならではの使い方があるし、そういった世界が出来てくるという事ですね。

【若い人へのメッセージ】
望月:この番組を聞いている学生の中には、デジタルを使って活躍していく人も沢山いると思います。何かメッセージなどありましたら、是非お伝えください。

杉山:この番組とも深く関連のあるテーマだと思いますが、例えば広告は歴史的には新聞のように大きなものに沢山投入されてきたものだと思うのですが、その流れが近年は明らかに変わってきています。デジタル・コミュニケーションによる新しい表現、新しいビジネス、新しい人に伝える方法、または伝わったものを人に共感させていくという、これまでの広告の勉強では通用しないものが生まれてきています。Twitterやfacebookの状況を見るだけでも、そういった事は分かるのではないでしょうか。
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だから今の若い人に言いたいのは「これまでの事なんて、どうでもいいじゃん」という事です。60歳以上の人の言うことなんて、全く聞く必要はない。好きにやってみたらどうだと。今の若い人を見ていると、僕らなんかよりもコンピューターの使い方もソーシャルメディアの使い方も上手ですからね。
また、僕が必ず学生に言っているのは「日本だけ見ていたら少子高齢化だけれど、世界を見るとベビーブームだよ」という事です。今年の11月には人類は70億人を突破すると言われているのですが、その半数以上は30歳以下です。それに毎年1億4000万人の赤ちゃんが生まれてきています。すると今後30年で30億人以上の若い人が出てくる訳ですね。この辺りを考えるだけでも、世界に出ていけばマーケットは巨大なんですよ。

望月:完全に「日本のマーケットを考える」っていう時代は終わりましたね。

杉山:日本人ですから、別に日本に住んでいたって良いんですよ。昔は海外進出と言うと自分も海外に出ていかないといけなかったですけど、今はネットの時代でどこに居たって海外進出している訳ですよ。東京のマンションの一室で世界のファン相手に仕事するなんて簡単です。今までの大人の言ってきたことや価値観なんかじゃなくて、自分が信じる道を作れば、それが未来になるんです。「好きに暴れてくれ」と言いたいですね。

望月:本当にそうですね。これからも日本のデジタル業界を引っ張っていってください。

杉山:何とか頑張ります(笑)

望月:本日のツタワリストはデジタルハリウッド大学学長で工学博士の杉山知之さんでした。有難うござ
いました。

杉山:有難うございました。


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