Interview_sugiyama of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

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  • 杉山恒太郎 (電通役員)

【広告への関心の原点】
望月:杉山さんはお若い頃から広告に興味がお有りだったんですか?

杉山:広告を特に意識していた訳ではないですが、後から振り返ると一番大きかった経験は東京オリンピックですね。あの時のポスターやドキュメンタリー、映画作品。市川崑のドキュメンタリーは今でも世界の映画学校で教材として使われていると聞きます。あれは全て「日本」の広告ですよね。オリンピックは、初めて日本の魅力を世界にアピールした広告と言えると思います。

市川崑 「東京オリンピック」


「ジャパン・プレゼンテーション」という本を出させてもらって、今でも細々と売れているのですが(笑)、今でも「ジャパン・プレゼンテーション」というのが自分の目標ですね。東京オリンピックというのは、表現物もイベントそのものもまさしく「ジャパン・プレゼンテーション」だった訳です。戦後から、日本はオリンピックで2歩3歩と一気に駆け上がったという感じですよね。あれが僕の原点ですね。社会環境を見ても、オリンピックで高速道路が出来たり、第三京浜が出来たり。ちょうど免許を持った頃で走ったり(笑)。色々な事が、あの時期に重なりましたね。
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望月:広告を作りたい!という思いはあったのですか?

杉山:表現と言うと大げさになってしまいますが、何かものを作る側に立ちたいなと言う思いはありましたね。

【ラジオコマーシャルの仕事】
望月:そうして電通に入られ、見事物を作る仕事に就かれたのですか?

杉山:最初はラジオの仕事からスタートしたんです。決して華やかな場所では無かったですね。でも物を作る楽しさを徹底的に教えてくれて、それに僕は魅了されてしまいましたね。ラジオコマーシャルの仕事を担当していたのですが、百本ノックのように毎日毎日(コマーシャルを)書かされて。それがクライアントに採用されると、ディレクターの位置でキューを出せるようになると。

望月:普通は監督さんやディレクターさんはまた別の方が担当されますよね?分業が凄い世界だと思うのですが、ラジオはそれが無いのですか?

杉山:当時、ラジオコマーシャルのプロダクションというのは無いに等しかったんですよ。だからコピーを書き企画を作り、スタジオを押さえ、タレントさんにセリフを喋ってもらい、SE(効果音)の業者さんと打ち合わせをして……と全部自分達でやってました。ギャラの交渉もしましたね。慣れない言葉を使ってドキドキしながら交渉をして。あと、見積もりも出しました。
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ラジオですから見積もりは単純ですけどね。全部手作りでディレクターズチェアに座ってキューを出したというのは、ラジオコマーシャルとは言え、後にテレビの時代になってからベテランから新進気鋭のディレクターさんまで色々な方と話をするようになっても、彼らと似たような事を自分もやってきている訳ですので経験として役に立ちますよね。ラジオでも色々な事を詰め込んで、一見それっぽくナレーターさんに喋ってもらっても妙に文学的だったりして訳分からなくなっちゃったりするんですよね。人によっては「喋りを一分早めてください」と言った方が、狙ったニュアンスが出てきたりもする。必ずしも洒落ていて気の利いた言葉で言えば、物事が伝わるかと言えばそんな事も無くて。物理的に「もっと早く読んでください!」と言った方が欲しいニュアンスが出たりもするという事を幾つか経験しましたね。

【テレビの世界への転機】
望月:テレビの世界に移られるきっかけというのは、どのようなものだったのですか?

杉山:それもやはりラジオがきっかけでしたね。当時から小学館は凄く大切なクライアントだったんです。初めて賞を獲ったのも、小学館の「GORO」(20代男性向け雑誌)の広告だったんです。グラビアとかファッションとか車とか、そういった男の子が好きそうなものを、かまやつひろしさんに題材だけ渡してその場で弾いてもらうという内容のCMで。かまやつさんらしいフォークっぽい、ロックっぽい感じで目次を歌いあげていくという。そのままだと余りにも長いので多少手を入れたりはしたかもしれないですが、コピーも書きませんでしたね。その後も色々と普通なら中々会えないような人に、若さゆえの怖いもの知らずで会いに行ってインタビューをしたりして、成果を積み上げて行ったんです。それで「面白い」という事になって、小学館の学生雑誌の広告を任されるようになって、それが「ピッカピカの一年生」のキャンペーンにも繋がっていったんです。ただ、決してそこに至るまでは簡単な話では無かったんです。競合が元々広告を担当していたので、そこに打ち勝たなくてはならないと。営業も「勝てる訳ない」と内心思っていたみたいだったんですよね。そこで「もし勝ったらケーキとコーヒーをおごってやる」と(笑)。競合に何とか勝つ事が出来たので、神田のしみったれた喫茶店の決して美味しくは無いケーキとコーヒーをおごりました(笑)。

望月:ふふふ(笑)

杉山:またその営業の人も、良い人だったけどしみったれた人だったんだよね(笑)。

【楽曲紹介1】
望月:このあたりで一曲ご紹介頂けますか?

杉山:「音楽と広告」という事で、せっかくですので自分が手がけたキャンペーンで、世の中に「伝わった!」というものから選んでみました。一曲目はAGFのコーヒーのCMの曲で、小林旭さんの「熱き心に」をお願いします。

#1 小林旭「熱き心に」


【「ピッカピッカの一年生」について】
望月:ラジオCMからスタートした小学館のキャンペーンですが、プレゼンに勝った事で今度はテレビのキャンペーンを手掛けられる事になったんですね。そこから、あの名キャンペーン「ピッカピカの一年生」が生まれる事になる訳ですが。

杉山:あくまでそれは結果です(笑)。人と違う事をやろうとはずっと思っていたのですが、それが結果的に人に広く伝わるものになったという事なんじゃないかと。あのキャンペーンは日本で初めてのビデオの広告だったので、まずそれが一つは驚きだったと思います。

望月:あ、そうなんですか!テレビコマーシャルというのはフィルムで撮影するのが通例とされていますよね。最近は変わってきてはいますが。

杉山:それまでの学習雑誌の広告というのは、入学前に桜吹雪が舞って利発そうな男の子と女の子が出てきて、真ん中に教育者みたいな人が立っていて「この子たちの未来のために」みたいなわざとらしくて偽善的なイメージがあったんですよ。でも、日本は縦長で同じ3月でも寒いところと暑いところがあるじゃないか。もっとリアリティのある生々しい子供たちに、エールを送りたい。日本中の子どもたちが、入学を前にワクワクドキドキしている。そういったものをキャンペーンのコアにしたかったんです。テレビコマーシャルの映像は16mmか35mmのフィルムを普通は使いますよね。でも小学館というのは出版社で、自動車メーカーのように大きな予算を組む事が出来ないので限られた予算の中でキャンペーンをしなくてはならないと。だから、日本中あっちこっちに行って撮影をするというのは難しい。それは条件だったんです。

そこにアメリカからビデオというものが飛び込んできた。非常に簡単に映像を作る事が出来る。アメリカではこれからの広告はどんどんビデオになっていく。それは長く続いたフィルムの世界にとっては脅威だったんです。今のビデオは瑞々しさやネットリ感といった、シズル感を映し出す事が出来ますよね。でも、当時のビデオは本当に生々しくて、報道やニュースのような画面だったんです。だから、凄くクリエイターは嫌がっていたんです。
でも、僕が子供たちの表情というと思いだすのはプロレスやボクシングの試合が終わった時に子供たちがカメラに向かって見せるひどい表情だったりしたんですよね。今はどうか分かりませんが、当時の子供たちはプロレスやボクシングの試合の時には面白い顔や無防備な顔をカメラに向かって見せていたんですよ。どうしてそういう顔を見せるんだろうと考えた時に、それは自分がカメラに映っているのが見えるからなんだろうなと気付いたんです。フィルムというのは現像と良く言いますが、ブラックボックスがあって自分がどう映っているのかが即時には分からないので怖い訳です。カメラのシャーッという音がしたりすると、特に怖い。
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今でこそ皆同じような撮影をしているのですが、当時僕はカメラの横にモニターまで置いて撮影をしたんです。すると子供たちは「どうだった?」とすぐに飛んできて映像を見るんですよ。子供も無防備になれるので自然な感じが撮れたんです。爆発するような感じと言うかね。だから、あのキャンペーンは撮影の方法も新しかったし、作り込んだ映像をテレビ番組の間に差し込んでいくようなコマーシャルでは無くて、あたかも日本のあちこちから実況中継をしているかのように、ニュースやドキュメンタリーのごとく臨場感のある子供たちが、ばんっと出てくる。面倒くさい言葉で言えば、即時性、即効性と言うのですが。生中継と言うのは、テレビの凄さですよね。事件でもスポーツでも。テレビの持つ良さをCMに目一杯使ったという感じですかね。

望月:ドキュメンタリーという視点はCMにとってはとても新しかったですよね。イメージばかりのCMが流れる中に、ドキュメンタリーという視点を持ち込み、なおかつ色々なバリエーションがあったという。

杉山:実際はそんなにバリエーションは無かったんですけどね。

望月:そうですか?沢山あったように見えましたけど。

杉山:そこはあるように見せるんです(笑)。シリーズ物って3種類あれば、色々な事をやってるんだなという風に見えるんですよ。

望月:毎年やっていたというのも大きいかもしれないですね。

杉山:仰るとおりですね。蓄積というのは大きいです。

望月「ピッカピカの一年生」というサウンドロゴも秀逸だったと思います。

杉山:あのサウンドロゴはスタジオでたった二人で作ったんですよ。クライアントも来なかったです。手作りと言うのはラジオCMの頃からやっていた事なので、不思議とも思わなかったし違和感も無かったですね。「ピッカピカの一年生」という歌の部分を凄く実は凝っているんです。新しい音楽をやっている人に、あえてこういうフレーズを歌ってほしいと思っていたので凄く凝って作りましたね。

【公共広告への目覚め】
望月:公共広告機構の「WATER MAN」というCMを杉山さんは手掛けていらっしゃいますね。CGで透明な人間を描いて、その内側の水がどんどん濁っていくという……。

杉山:人間の体の70%は水なんですよね。だから、その水を汚したら大変な事になるという事を伝えたかったんです。

望月:「WATER MAN」の広告は97年IAA国際広告賞グランプリ、97年NYフェスティバル金賞など、あらゆる広告賞を総なめにされています。杉山さんは元々ACのような広告には興味がおありだったのですか?

杉山:カンヌ国際広告祭に審査員として渡った事がきっかけで、公共広告に目覚めたんですよ。世界にはこんなにも傑作が沢山あるのか!とまずそのレベルの高さにビックリしました。そして、日本はその領域はまだまだだなと思いましたね。ほとんど出品が無かったと思います。カンヌの審査員になると、1500本から2000本ぐらいの広告を3日間ぐらいかけて観て、採点をして票を入れるという事をするんです。すると、商品広告の数は日本とアメリカが圧倒的に多いんですよ。
ところが「パブリック・サービス・アド」という公共広告や「チャリティー」というカテゴリになると、それまで沢山広告を作っていた「ジャパン」が突然消えるんです。それがちょっと恥ずかしかったです。座っているうちに体が小さくなっていくような思いでしたね。そして、トップクリエイターは何故こんなにも一生懸命に公共広告を作るのだろうと思いました。習慣の違いだとか社会正義が云々という事も考えたんですけど、やはり広告と言う表現スタイルで社会的なメッセージを色々送る公共広告と言うのはかなりの効果を出す訳です。広告の力の大きさを、公共広告は証明してくれるんですよ。
もっとも公共広告は「正しい事」を沢山言う広告なので、気をつけないと上から目線のつまらない広告になってしまうんですけどね。でも、やはり公共広告は広告の持つパワーを証明してくれる「“広告”の広告」なんだなという事に気付いたんです。そうして仕上げた物が「WATER MAN」だったんです。他にも骨髄バンクのドナーの公共広告なんかも、2年ぐらいでドナーの数が随分伸びたんです。

望月:普通の商品広告と言うのは、商品をより良く元気に楽しく見せるというのが基本だと思うんです。しかし、公共広告と言うのはともすればネガティブになりそうな事柄を如何に伝えていくかという点ではクリエイターにとっても新しいチャレンジになりますよね。
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杉山:当たり前ですが、やはりマナーとして暗い広告は嫌ですよね。しかし、人間と言うのは笑顔もあれば涙もある訳です。公共広告と言う形で、広告の素材として「涙」のサイドを取り上げる事が出来るというのはある意味普段のストレス解消にもなりますね。

【楽曲紹介2】
望月:このあたりで2曲目をご紹介頂けますか?

杉山:私が手がけましたサントリーさんの角瓶のコマーシャルのCMソングになりました井上陽水さんの「いっそセレナーデ」を。



【デジタル領域への転機】
望月:いわゆる従来型の広告で様々な賞をお獲りになって、大活躍されていた杉山さんですが、その後突然デジタル領域に足を踏み入れられましたよね。これは何か思うところがあったのでしょうか?

杉山:いやいやまったく(笑)青天の霹靂で、周りもビックリしていたのでしょうが何よりも自分がビックリしました。でも、既にいい歳になっていたのですが「また新しい事が出来るんだ!」とすぐに頭が切り替わって。それからは面白い時間でしたね。インターネットというコミュニケーションツールをいかに広告メディアにしていくかという作業だと思ったので、単に表現のクリエイティブと言うだけではなく広告メディアを創出していくというもっと大きなクリエイティビティが問われるなと。もちろん新しいクリエイティブを作っていくというのは必需なんだけれど、どれだけ効果があるかと言うマーケティング手法や効果指標といったものも一緒に考えてクライアントに納得してもらえるように作っていかないといけない。統合的に考えるという事です。
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だから、そういう意味で改めてメディアってものを凄く考えましたね。メディアって不思議なもので、1920年代から30年代の広告の人たちが作った言葉なんですよ。だから、当時の新聞やラジオの人たちは「メディア」って呼ばれる事を凄く嫌がって。これは当たり前の事で、彼らは自分達の仕事は放送だとかジャーナリズムだという風に思っている訳です。勝手に広告会社の人が、一番効率の良い媒体を求めて「メディア」だなんて言い出した訳です。だから、こういった歴史を知っているとテレビでも新聞でもラジオでも自分で「メディア」だなんて言っちゃいけない訳です。テレビはメディアのカジュアル化と言われたんですよね。
確かにテレビはカジュアルです。ではインターネットは何だろうと考えた時に「共有」という事を思いついて、そういった事をキーワードにずっとしていました。あと、クリエイティブにとっても「インタラクティブ」というのはこれまで無かった訳ですよね。これまでは受け手は受けて、送り手は送り手という関係になっていました。だから僕はクリエイターに向けて「クリエイティブのホスピタリティー」という事を言っていました。来た人には滞在してもらわないといけないし、滞留してどんどん奥に入っていってもらわないといけないと。これは旅館やホテルを作るのと一緒なんです。門構えが思わず入って行きたくなるような造りになっているとか。他にも綺麗な花が飾ってあるとか良い匂いがするとか、あと愛嬌の良いお姉さんがいるとかね(笑)。レイヤーをどう組んでいくかなんです。だから建築系の人がクリエイティブの世界には結構いるし、その事が僕には良く分かるんですよ。

望月:デジタル領域に入っていたのが、1999年ですよね。それは周りの目も冷たくて、大変だったんじゃないですか?

杉山:大変でした!ソリューションって言葉なんて、使うだけで怒られて(笑)。お前のやっている事は何なのか良く分からない!って言われたりとか。でも希望は確かにあったので、怯える事は無かったですね。新しい事が出来て嬉しいなあと言う感じだったし、新しい人達が育っていくのを見るのも楽しかったですね。人を育てる事の楽しみってやっとその時になって分かったんですよね。クリエイティブの人ってアウトプットを自分で出さなきゃいけないから、ケチなんですよ(笑)。でも人を育てる事ってジェラシーとかじゃなくて、自分をまた一つ大きくしていくことなんだという事を頭じゃなくて身体で、身も心も実感して。自分も大きくなっていくことなんだと思って、さらに自由になった感じがしましたね。

【コミュニケーションデザインについて】
望月:最近ではデジタルも旧来型もイベントなども含めて、コミュニケーション全体をデザインしていくという概念が生み出されました。

杉山:これはロンドンから生み出された概念だったと思うのですが、真っ先に気になった事でした。ニューヨークで若いクリエイターに会って、彼が間借りしている事務所でそれについて話した事なんかを思い出しますね。コミュニケーションをデザインしていくという新しい概念の象徴は岸(勇希)くんだったりするけれど、新しい概念を生み出して実践していく若い人たちが出てきているのは嬉しいですね。

望月:クライアントがそういう事を求めてきているという事でしょうか?

杉山:そうですね。統合的な視点と言うのが必要になってきています。ただ、コミュニケーションデザインを機能させるためには実行力と実現力が必要な訳です。実行力と実現力と言うのは、魅力的な言葉を見つけたり創出出来たり、物語を作れたりとか。特に物語ですね。どんなに時代が変わろうとも、コアの部分は魅力的でチャーミングなアイデアやクリエイティビティだというところに帰着するんですよ、余計に。それは自分にも肝に銘じてます。

望月:本当にそうですね。本日のツタワリストは株式会社電通役員の杉山恒太郎さんでした。有難うございました。

杉山:ありがとうございました。
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