Interview_ishiwatari of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

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いしわたり 淳治(音楽プロデューサー)

【音楽を始めるきっかけ】
望月:様々な活動をされていますが、そもそもはSUPERCARとしてメジャーデビューをされたんですね。小さい頃から音楽が好きで、音楽のプロになるぞ!と思っていたんですか?

いしわたり:全然そんなことは無くて。音楽は好きで、良く聴いてはいましたけど。

望月:どんな音楽を?

いしわたり:中学生の頃が、カート・コバーン(ニルヴァーナ)のグランジ・ロックの全盛期で。そういったものを、よく聴いていましたね。
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望月:すると、洋楽志向だったんですね。

いしわたり:全部洋楽でした。初めて買ったのも、ローリング・ストーンズで。

望月:そうして、音楽を自分でも始められるんですね。

いしわたり:実は、ずっと野球をやってたんです。でも、野球を辞めたらすごく時間が余ってしまって。僕は全寮制の学校に行っていたんですけど、学校から30メートルしか離れていなかったんですよ。だから、授業が終わったらもう30秒後には暇で(笑)。お金も無かったので、それから部屋でギターを弾く生活が始まって。それが高校2年生の頃でしたね。

望月:結構(始めるのが)遅い方ですね。

いしわたり:実はそうなんですよ。

望月:高校2年生の時に、町のギター屋さんに行って、ギターを買って……という感じだったんですか?

いしわたり:町にギターを売ってるお店が無かったんですよ。だから、本屋に行って「バンドやろうぜ」という雑誌を見て、そこの通販のページを開いて、一番お得なセットを吟味して選びました。

望月:良くありますよね。お得な1万円セットとか(笑)。

いしわたり:3万5千円でアンプが付いてきますとか(笑)。

望月:そうして買ったのが最初だったんですか?

いしわたり:そうです。

望月:(動機としては)暇になったし、ちょっとギターでも弾いてモテてやろうという感じだったんですか?

いしわたり:モテたいという気持ちが無かったと言えば嘘になりますけど、それよりも大きかったのが兄貴の存在ですね。兄貴には何でも勝てるという自負があったんですけど、兄貴はギターが弾けたんですよ。試しに僕も弾いてみたんですけど、全く弾けなくて。こんなに(ギターは)難しいんだ!と思って、ちょっと練習してみようと。

【SUPERCAR結成の経緯】
望月:そこから、実際にプロになるまでというのは色々なステップがありますよね。まずバンドのメンバーを集めなくちゃいけない。メンバーはどのようにして集めたんですか?
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いしわたり:僕は寮に入っていたので、実家とは違う町に住んでいたんです。その町で、まずはバンドを組もうと思って、CDショップに貼ってあった3~4枚のメンバー募集の張り紙の内、1つをピックアップして連絡を取ったんです。でも、連絡を取った先のバンドは全然動かなくて。これは困ったと思っていた時、中学の同窓会で仲良かった友達2人と再会して。そいつらはギターが弾けるし、ドラムも叩けるというので、俺もギターが弾けるから、バンドをやろうということになったんです。そこでさっきの一向に進まなかったバンドの女の子をベースとして招いて、4人組のバンドを組んだんです。それがSUPERCARです。

望月:SUPERCARという名前は誰が付けたんですか?

いしわたり:僕が付けました。当時日本でどんなに頑張って音楽をやっても、日本にしか響かないと言う感覚があったんですよね。曲も日本語でやろうと思っていたし。だからバンド名も“日本語英語”っぽい名前が良いなと思ったんです。そこで日本語英語で一番ポップな名前は何だろうと考えた時に、やっぱ「スーパーカー」かなと。

望月:ちなみに、好きなスーパーカーは何かあったんですか?(笑)

いしわたり:スーパーカーのブームって1977年で、僕が生まれた年なんですよ(笑)。上に扉開いたらカッコいいみたいな感覚しか無いです(笑)。

【メジャーデビューに向けて】
望月:メンバーが集まってからも、デモを作ったりとか試練が沢山あるじゃないですか。でも(SUPERCARは)デビューまでが短いですよね。

いしわたり:そうですね。高校2年でギターを始めて、高校3年でバンドを組んで、その年にはソニーのオーディションにデモテープを送ってお返事を頂いてました。

望月:最初の活動はデモテープをレコード会社に送ることだったんですか?

いしわたり:ええ。ライブもしたことなかったですね。

望月:そうなんですか!すごいですね。

いしわたり:デモテープを送ったら、すぐに返事が来たんです。でも、即プロ契約と言うわけでは無くて、スタジオ代を応援しますと言う契約だったんです。要するに育成期間みたいな感じで、デビューの保証も無くて。ただ、高校3年生って進路を決めなくてはいけない時期ですよね。だから大いに悩みました。最終的には皆、進学を辞めたり仕事を辞めたりして。

望月:デビューに向けて頑張ろうと。

いしわたり:そういうムードになってましたね。ただ、僕は一人だけ皆と違って高専に通っていて、そこが5年制の学校だったんですよ。だから、僕だけは最終的に学校に通いながらデビューということになりました。

【メジャーデビュー以後の活動】
望月:デビューはその2年後ですよね。やはりCDが出た時は「やったぞ!」という感じだったんですか?

いしわたり:もちろん!「これで何かが変わるぞ!」と思いましたね。ただ、現実をみるとやはりB’zさんの方が売れている訳です(笑)。

望月:デビューをしてすぐに東京には出てきたんですか?

いしわたり:いえ。ずっと青森から(東京へ)通ってましたね。今でこそ沖縄在住とか名古屋在住といった言葉がありますが、多分「在住」という言葉を使い始めたのは僕だと思います。

望月:そうなんですか!するとSUPERCARは地元在住バンドの走りだったんですね。
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いしわたり:多分そうだと思います。それより前は(同じ事をしていたアーティストを)知らないですから。

望月:すると東京での盛り上がりは、あまり肌感覚としては無かったんじゃないですか?

いしわたり:東京に来ると、そこそこライブ会場が埋まりますし、ワアッという盛り上がりもあるんです
けど、青森に帰ると(僕は)小市民ですから(笑)。誰が振り向くでもなく。むしろ、あいつ何やってんだ?っていう目で見られますからね。働きもせずにと。

望月:東京に行くのはレコーディングの時ですか?

いしわたり:レコーディングやプロモーションですね。

望月:すると、東京ではホテル生活ですね。

いしわたり:長い時は40泊とかしましたね。

望月:40泊も何をするんですか?(笑)飽きませんでしたか?

いしわたり:(東京に)居る間に、全ての予定を詰め込んでしまえ!というスケジューリングだったのでホテルは本当に寝るだけでしたね。もし東京に住んでいるのなら、1日2~3本の予定で終わるのかもしれないですけど、(地元在住だと)なるべく滞在期間を短くした方が良いじゃないですか。だから、すごい過密スケジュールでした。

【SUPERCARの活動の裏側について】
望月:「自分達の音楽のこういうところが受けているんじゃないか」というような分析は、その頃、自分達ではされていましたか?

いしわたり:遠い昔の事なので、あまり記憶に無いんですよね。ただ、当時は自分達ですべてPVまで作ってたんですよ。ディレクターとメンバー4人でチームを組んで作ってました。この5人で本当に全てを回していたので、面白がって色々やっているうちに全てが転がって行ったという感じでした。

望月:すると、本当にあっという間にスターダムを登って行ったという感じなんですね。

いしわたり:今の子たちに比べると、スムーズというか華々しいデビューではあったかもしれないです。ただ、当時はミリオンヒットがばんばん出ていた時期でしたから、それに比べると、当人たちは(作品が)あまりヒットしたという実感は無かったです。

【楽曲紹介1】
望月:このあたりで一曲ご紹介して頂きたいのですが、どのような曲を?

いしわたり:斎藤和義さんの「ずっと好きだった」を。

望月:この曲は去年の資生堂のCMソングになりましたよね。この曲にはどのような思い入れがあるのですか?

いしわたり:「ずっと好きだったんだぜ」という歌詞とメロディーがいいなあ!と思うんです。「~だぜ」と言ってカッコよく決まると言うのは、やはり本人でないと書けないものですよ。作詞家としては嫉妬がありますね(笑)。

#1斎藤和義「ずっと好きだったんだぜ」


【プロデューサー業への転身】
望月:SUPERCARを7~8年ほどおやりになっていたんですね。その後、SUPERCARを解散されましたが、その後はどこに向かおうと考えていたんですか?

いしわたり:SUPERCARは2005年の2月に解散しました。しかし僕はメンバーの中でも(グループを)解散したい派では無かったんです。活動を続けたかったのですが、結果SUPERCARは解散する事になって。だから(解散した後は)僕は本当にする事が無かったんです。何をすればいいんだろうと。

望月:「転職しようかな?」みたいな感じだったんですか?

いしわたり:本当に何をしようかと思って。とりあえず作詞ぐらいしか僕には出来る事が無かったので、作詞を極めようと思いました。それと同時に当時所属していたレコード会社の社長さんから「チャットモンチーというバンドが今度デビューするから、プロデュースをしてみないか」とお話を頂きました。僕はバンドの中ではどちらかというと歌詞を書く人で、ただギターを弾いていたんです。バンドの全体像をまとめていくのは別のメンバーだったんですよね。だからプロデュースというものが良く分からなかったんです。でも「やります。お願いします」と言いました。やはりその時僕にはする事が無かったですし、やった事の無い事をするのは一番好きな事なので。

【チャットモンチーのプロデュースについて】
望月:プロデューサーとして、まず最初にやった事は何でしたか?

いしわたり:まずメンバーをディズニーランドに連れて行きました(笑)

望月:ははは(笑)まずディズニーランドですか!

いしわたり:チャットモンチーのメンバーは当時徳島に住んでいたので、仕事の時にしか彼女たちと東京で会うと言う事が無かったんですよ。すると、その時間に話すことと言えばどうしても音楽の事だけになってしまうんですよね。あれもやってみようこれもやってみようと真面目な話ばかりで。でも、僕は彼女たちの魅力はそこだけでは無いなと思って。それはキャラクターであったり、優しさであったり、温かさであったり。そういったものを音楽に落とし込めればそれだけでも十分カッコいいものになると思ったんです。だから、まずは彼女たちの事を良く知らなくてはいけないと。だから彼女たちをディズニーランドに連れて行って「今日一日は夢の国だから、音楽の話はしては駄目だ」と。彼女たちが何は可愛いと言って、何は可愛くないと言うのか。どれは面白いと言って、どれは無いと言うのか。そういった彼女たちの価値観の部分を見ようと思ったんです。

望月:すると、彼女たちと人間的に近くなりますよね。

いしわたり:プロデュースの基本姿勢としては、もう自分がメンバーになるぐらいの気持ちなんです。「これはロックだ」「いや、ロックじゃない」と言っているような人たちは、もうそれでいいんです(笑)。メンバーの中に入って真面目に作ったり、ふざけたり、真面目にふざけたり。それを繰り返しているだけですから。精神的な距離が近くになってくると、出来てくる物も必然的に良いものになっていきますよね。

望月:チャットモンチーも最初からブレイクすると言う訳も無く、悩んだ時期はあったはずだと思うんです。彼女たちの課題はどのようなものだったんですか?

いしわたり:「チャットモンチー」というバンド名から感じる幼さですね。彼女たちのキャラクターも仇になっていたのだとも思いますが。

望月:いかにも可愛らしい女の子がやってます!って感じがしますもんね。

いしわたり:今でこそ言葉に出しても自然ですけどね。ただ、彼女たちがデビューした当時は、30歳を超えた大人の男がこのバンド名を果たして声に出して言えるのだろうかと。

望月:大人の男が「おれ、チャットモンチー好きなんだよね」と。周りは「なんだそれ!」みたいな感じになるかもしれないですね(笑)

いしわたり:このバンド名の幼さに関しては、本当に周りからすごく突っ込まれました。僕自身、このバンド名の持つハードルが高すぎて多くの人に音楽を聴いてもらえていないという実感があったんです。そこはしんどかったですね。

望月:チャットモンチーのブレイクのきっかけは「シャングリラ」ですよね。これは普通にぽろっと出来て、出したものだったんですか?

いしわたり:この曲は当時の深夜アニメの「働きマン」の主題歌だったんです。(チャットモンチーの曲が)主題歌になるのはこの曲が初めてだったと思います。主題歌になったおかげなのか、この曲からチャットモンチーの曲を広く聴いてもらえるようになって。

望月:聴いてもらう事さえできれば、チャットモンチーはいける!という自信はやはりあったんですか?
いしわたり:いえ……(笑)。僕はそんなこと言える立場では無くて、明日をも知れぬ思いで頑張ってやってましたから。

【9mm Parabellum Bulletのプロデュースについて】
望月:チャットモンチーのブレイクに続いて、9mm Parabellum Bulletも手掛けられていますね。

いしわたり:丁度「シャングリラ」の時期だったと思うのですが、デザイナーの友達から連絡があったんです。「この間、インディーズのバンドのジャケットを手掛けたんだけど、すごくカッコいいバンドだから一緒に見に行こう」と。そこで一緒に下北沢の小さなライブハウスに行って。そしたら、会場で物凄く暴れているバンドがいて(笑)。しかも、その暴れ方はパフォーマンスではなくて、もう「暴れないと、もうどうしようもない!」というようなものだったんです。堂に入った暴れ方と言うか。それがめちゃくちゃカッコ良くて。だからライブが終わってメンバーが撤収していく時に「めっちゃくちゃカッコ良かったよ!」と声をかけて。そして、その事を自分のブログにも書いたんです。それが9mmだったんです。バンドはちょうどメジャーに移るタイミングだったみたいで、ディレクターさんに「一緒にやりませんか?」と声をかけて頂いて。(9mmがデビューをして)案の定、皆さん彼らの暴れ方を気に入ってくれたみたいで(笑)。ちなみに、このバンドはCDよりもライブだろう!と僕は最初の頃彼らの事を「ライブ屋」と呼んでいました。

望月:すると、彼らとは運命の出会いだったんですね。

いしわたり:今思えば、という感じですけどね。当時はただ必死にやっていただけですから。

【伝わった歌詞の話:「愛をこめて花束を」】
望月:いしわたりさんは作詞家としても様々なアーティストを手掛けられていますね。自分の作詞が「届いた」「伝わった」と感じた作品はどのようなものですか?

いしわたり:広く聴かれたという意味では、Superflyの「愛をこめて花束を」ですかね。
望月:この曲は大ヒットしましたね。特にポイントとして意識したのはどのような事ですか?

いしわたり:この曲は元々ドラマのタイアップが決まっていて、こことここは残してくださいという具合にリクエストがあったんです。そこでプロデューサーの蔦谷好位置くんと相談しながら、ここはこうしようと言うような具合でメンバーが元々書いていた曲を手直ししていく形で(リクエストを)引き受けたんです。

望月:やはり本人たちのパワーと言うのは大きかったですか?

いしわたり:そうですね。特にSuperflyの場合は歌の力ですよね。

【ロックと広告音楽の違い】
望月:実はいしわたりさんとは僕のプロデュースで一緒に広告音楽をやらせてもらったんです。「草花木果」という化粧品ブランドのCMソングで坂本美雨さんの「はじまりはじまり」という楽曲を書いて頂きまして。まず話を受けた時に、どのような印象を持ちましたか?

いしわたり:やった事が無い事をやるのが好きとはいえ、こんな事があるのかというぐらいびっくりしました。いかに自分がロックの歌詞ばかりを書いていたのかを思い知った瞬間で。今、ロックの音楽ってどうなっているのかというと、(リスナーは)直に作った人の音楽をiPodに入れて、直にヘッドホンで聴いているんです。だから、表現がどんどん近い物になっています。生々しい物やリアルな物、身も蓋も無いような物や殺伐とした物といったソリッドな表現にどんどん向かっているんですよ。だから一度ヘッドホンを外してしまうと、この音楽をリビングルームでは聴く事が出来ないんです。すぐに(音楽を)止められてしまうんです。でも一方で、広告の音楽と言うのは基本的にリビングで流れるものじゃないですか。だから、(ロックと)ベクトルが根本的に異なる物なんだなというのを改めて実感しました。

望月:非常に「はじまりはじまり」というタイトルが新鮮だったんですが、このタイトルはどのように決められたのですか?

いしわたり:僕が個人的に「ブーム」と呼んでいる方法なのですが、タイトルは「なんとなくこういうのが好き」というのを幾つか付けて、飽きたら変えると。このタイトルを付けた時は、「皆が知っているけれど、まだあまりタイトルとして使われていない言葉」が良いなと感じていた時期で。「はじまりはじまり」と同時期に付けた別タイトルの作品は「神様のいうとおり」というタイトルで。この言葉も(「はじまりはじまり」と)同じように作品のタイトルとしては聴いた事の無い言葉だと思うんですよ。その時はこういう言葉が好きだったんです。

【楽曲紹介2】
望月:続いてもう一曲ご紹介頂きたいのですが、どのような楽曲をお選び頂きましたか?
いしわたり:最近プロデュースをしているFLiPという沖縄の女の子4人組のロックバンドの曲を。最近アニメの主題歌になりまして、広く聴かれている曲です。

#2 FLiP 「カートニアゴ」


望月:むちゃくちゃロックな曲ですね。

いしわたり:さっき言っていた事はなんだったんだと(笑)。どロックな曲です。

望月:やはりいしわたりさんはロックがお好きなんですか?

いしわたり:勿論そうです。やる気が出る感じとかが好きですね。

望月:ロックの歌詞と言うのは(書き方として)自由ですか?

いしわたり:ロックの方が自由ですね。ロックって「これはロックだ!」と言ってしまえば許されてしまうようなところが多いじゃないですか。そういった点が自由と言えば自由なところですね。

【作品作りの「枠」の制限について】
望月:今まで沢山の作詞やプロデュースの仕事をやってこられたと思うのですが、エンタテイメントの世界のプロフェッショナルな仕事と言うと、ある「枠」を決められてしまう物が多いじゃないですか。ロックにしても、アマチュアでやる分には、例えばiPod向けに小さく小さくやっていても「ご自由にどうぞ」と言う話ですよね。でもプロフェッショナルでやるとなると、やはり売れなくてはいけない。そういった枠組みが決められていくと思うのですが、その点についてはどのようにお考えですか?

いしわたり:僕は「自由」は「不自由」の中にあると思うんです。「ここからここまでは何やっても自由だよ」と言われれば、それは自由だと思います。しかし「何をやっても良いよ」と言われてしまうと、何をやってもいいはずなのに「これをやった」という不自由が生まれてしまうと言いますか。だから、僕は枠があればある程嬉しいですね。その点、望月さんとやった(広告音楽の)枠もやりがいのある「枠」でした。面白いと思う事が出来ました。一方で「何でもやっていいよ」と言われると、身構えてしまいます。何をやろうかと言うところから考える事になるので。楽しみ方が変わってしまうんですよね。
望月:SUPERCAR時代にもそのような枠組みはありましたか?

いしわたり:まず4人でバンドを組むとなると、4人で出来る音楽とはどのようなものかと言う枠が出来ますよね。僕はプロデュースにあたって、基本的にゲストミュージシャンを入れないんです。自分達でやれる音楽をやればいいじゃないかと思っている節が心の中にあって。「枠」があるからこそ面白いじゃないかと。

望月:エンタテイメントとして高みを目指すのであれば、見栄えや演奏能力を考えて別の要素を入れたくなることもあると思うのですが、それはあえてしないということですか?

いしわたり:それが必要だと感じる時が来たならば、すればいいと思います。ただ、身の丈以上にそれら
を詰め込むと、本人たちが霞んでしまいます。だから、僕は必要な時が来たら、その時にすればいいというだけかなと。

【歌詞のプロデュースについて】
望月:歌詞のプロデュースに関しても、同じような考えですか?基本的には赤を入れないであるとか。

いしわたり:昔の歌謡曲の世界では、プロデューサーが居て、歌手が居て、作曲家が居て、作詞家が居てといった具合に綺麗に関係が分かれていたと思います。でも今は「一億総アーティスト時代」で、誰でも「本人」が書いたものをありがたがる傾向が凄く強くなっていると思います。たとえ拙い歌詞でも良いから、本人が書いた物の方がありがたいと。この事で何が起きるかと言うと、(曲作りは)「出た事勝負」の世界になってくるんです。「この人がどのようなものを出してくるか分からないけれど、とりあえず待っていよう」と。
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その結果、待ったけれど「やはりこの曲は駄目だ」と使われないと言った事が起きるようになってくるんです。このような時だからこそ、僕が歌詞のプロデュースが必要だと思っているのは、本人が伝えたいと思っているけれども表現が出来ていないところに、技術やテクニックを伝えて手助けしてあげる人が今一番必要なんじゃないかと思うからなんです。そうしないと無駄打ちの曲が増えていくだけで、出たとこ勝負で100曲揃えられても、それはそれで(リスナーに)ちゃんとジャッジされないですよね。「書きたい事はこれで、ここはこういう風にもっていきたい」といった意思を汲んであげる仕事が必要な気がしていて。プロデューサーとして音のアレンジから必要ならその延長として歌詞もやらせてもらいますが、歌詞のみをいじるためにアーティストの活動に参加をする事も最近はありますね。

望月:それは日本のプロデューサーの中でも、かなり珍しいですね。

いしわたり:この仕事をしばらくはやってみたいと思っているんです。皆に認知してもらえるぐらいまでは。

望月:なるほど。そういった仕事と言うのは、実は広告の世界では当たり前のことなんです。コピーライターが居て、クリエイティブディレクターが居て、表現をチェックしながらプロデュースをしていく。アーティストの世界では、アーティスト本人から出される言葉は神のように捉えられてしまって、それがプロのレベルに到達していないとしてもOKが出されてしまうと言うある種の緩さが存在しますよね。そこを(しわたりさんは)チェックして、プロデュースしていくと。

いしわたり:なんか(詞が)ブログみたいなんですよ。「こんな辛い事があった」みたいな。それを何かの表現に落とし込む事が、作詞なんです。だから、必要なのはブログを「詞」にしてあげる作業ですね。あと、その人に見合う表現に変えてあげるということもしたいですね。その人がしたいような温度感の物にしてあげるというか。

【いしわたり氏の歌詞の作り方】
望月:いしわたりさん自身は好きな作詞家や詩人はいますか?

いしわたり:沢山いますよ。僕はブルーハーツで育った世代なので、やはり(甲本)ヒロトさんの詞はいつ見ても凄いなと思って、曲を聴いてます。あと、松本隆さんや阿久悠さんの詞も、ちゃんと有り難く勉強してます(笑)。

望月:「この歌詞にはやられた!」というようなものはありますか?

いしわたり:時代錯誤かもしれないですが……(笑)。工藤静香さんの「慟哭」という曲を中島みゆきさんが書いているんですけど、最近たまたま耳にしまして。これは凄い歌詞だなと思いましたね。

望月:そういった歌詞に刺激を受けて、曲よりも先に詞を書くと言う事はありますか?

いしわたり:人生で曲よりも先に詞を書いた事は一度も無いですね。曲が先にあって、それから詞を書くという受動態なんです(笑)。

望月:すると、自分で詞を書きためておくと言う事も無いんですか?

いしわたり:一切無いですね。普段思った事を書きとめておくという事はあっても、それを実際に使っているかと言うと、使っているのはほんの数パーセントですね。そのつもりで書きとめると言う事をしていないんでしょうね。

望月:依頼を受けてから、降りてくる物の方が伝わるものになりやすいと言う事ですかね?

いしわたり:僕は音楽の中に言葉があれば良いなと思っているんです。音楽を聴いた時に浮かぶ映像やイメージ、物語、主人公の性格といった物がそのまま言葉に翻訳出来たら良いなと思っていて。だから、受動態で曲待ちなんでしょうね。曲を貰ってから、考える。僕自身が何かを発表するのであれば、それはアーティストですよね。

【今後の活動について】
望月:ずっとアーティスト活動をされてきて、それからプロデューサーになられた訳ですが、もう一度アーティスト活動をするというようなヴィジョンはお持ちですか?

いしわたり:それは今のところは考えていないですね。

望月:裏方としての仕事が気に入っていらっしゃると言う事ですか?

いしわたり:はい。人前に出るのが苦手なんです(笑)。

望月:SUPERCARをやっていたにも関わらず(笑)。すると青森に帰ってひっそりと……。

いしわたり:そこまではしなくて良いんですけどね(笑)でもひっそりと暮らしていければ良いなと。

望月:すると今後は作詞家とプロデューサー活動を両立させていくのですか?

いしわたり:そうですね。あとは先程話した歌詞のみのプロデュースというのも力を入れたいですね。

望月:新しいプロデュースのスタイルですよね。今後も素晴らしい作品をどんどん世に出して頂ける事を期待しています。本日のツタワリストは音楽プロデューサーのいしわたり淳治さんでした。ありがとうございました。

いしわたり:ありがとうございました。
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