Interview_nakajima of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

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中島信也 (CMディレクター)

【音楽に打ち込んだ学生時代】
望月:中島さんは元々はミュージシャンになりたかったそうですね。

中島:幼稚園ぐらいの頃から女の子が気になりだして、小学生になると「どうしたらモテるのだろうか?」と考えるようになったんです(笑)。小学校というのは、一番足が早い奴がモテる場所な訳です。
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ところが僕は足がめちゃくちゃ遅かったんですよ。「これはモテるためには別の事をやらなくちゃいけないな」と思い、グループサウンズの真似事をするようになって。そうして真似をしているうちに、ビートルズの存在を知る訳です。「モテるには、ビートルズにならないと駄目だ!」と思い込んで、以来ビートルズになる事だけを考えて人生を歩んできた訳ですが、今ではどうもあの4人になるには髪形的に不可能みたいで(笑)。

#THE BEATLES
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望月:バンドを組んだりはされましたか?

中島:中学で「クリケッツ」、高校で「パンプキン」というバンドを作りました。ビートルズになるにはオリジナルの曲を作らないと駄目だと思い、パンプキンでは自分で曲を書きました。その後、大学では「ケチャップス」というバンドを組んだのですが、今のところケチャップスは何十年か活動休止中でして(笑)

望月:「プロになろう!」というぐらいの意気込みで活動されていたのですか?

中島:結構本気でやってましたね。女の子にキャーキャー言われるという目的が果たしてプロになったからといって必ずしも叶うのかというのは甚だ疑問ではありましたけどね。ただ、就職はせずにアルバイトをしながら音楽活動を続けるぐらいの心持ではいました。

【制作会社への入社】
望月:CMディレクターというと映画やドラマが好きな人が多いというイメージなのですが、中島さんは美術大学のデザイン学科卒でいらっしゃるんですね。

中島:大学ではグラフィックデザイン寄りの勉強をしていて、就職活動の際にはデザイナー職を募集している広告会社を志望しました。「絶対にデザイナーになる!」と意気込むほどにはデザインのレベルが高い訳では無かったのですが、周りのムードや様々な事情もあり、受ける事になったんです(笑)。
ところがさらなる事情が発生し、クリエイティブ職を受けていたその広告会社の選考を途中で辞退しなくてはいけなくなったんです。その上、実技や作品面接を担当してくれていた広告会社の方からは「中島君、君のデザインはあかんぞ」と言われ、これはもうどうしようかと(笑)。父から「制作会社を紹介する」とも言われてもいたのですが、「それはいいや」という気持ちでしたし。
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その後、広告会社の方から「君はテレビの方がいい」と言われ、紹介して頂いたのが東北新社というテレビ制作会社でした。まずは3カ月間見習いをした上で、正社員として採用するという話だったのですが、広告会社の方からテレビの制作会社を紹介してもらった訳ですから、まあ究極のコネですよね(笑)。ただ実際には、東北新社が何をしている会社なのか全く分かっていなくて。CMには音楽が付いているので「どこかで音楽と繋がるかもしれないな」という淡い期待を持って入ったというのが正直なところです。

望月:東北新社に入社後は、まずはADとしてお仕事をされるのですか?

中島:東北新社にはプロデューサーになるためのコースがあり、そこでまずはプロダクション・マネージャーとして、テレビ局のADのような使い走りをしました。まあ、何でも屋ですよね。昔のデザインって今のようにMacを使ったりはせずに、定規で線をひいたりピンセットで一文字一文字貼りつけたりする繊細な仕事だったんですよ。一方でムービーの世界は使い走りをしていると一日で靴がドロドロになるぐらいに汚れるんですけど、大声を張り上げてワアワアと仕事をする訳です。僕にはそれがめちゃくちゃ面白かったんですね。「僕はプロダクション・マネージャーになって、そのうちプロデューサーになるんだ!」とこの時に思ったんです。ところがその矢先に広告会社の人に見つかってしまって(笑)。「中島君、何をやっているんだ。君はディレクターになるんだよ」と言われたんです。ディレクターというのはCMの監督でして、ディレクターになるためには企画・演出部というところに行かないといけなかったんです。
ところが企画・演出部には「鬼」が住んでいるという伝説がありまして(笑)。とにかく恐ろしい先輩が居るというので「近寄ってはいけない」と。だから、僕はそこに行きたくなかったんですよ。何せその時僕の居た部署のチーフはとにかく優しくて、すごく居心地がよかったんです。でも結局、企画・演出部に無理やり投げ込まれ、弟子として二人の師匠に師事をして、ディレクターとしてのキャリアをスタートする事になったんです。

望月:企画・演出部の水はいかがでしたか?

中島:プロダクション・マネージャー職の時は早朝から深夜まで働いていたんですけど、企画・演出部に移ってからは師匠の時間に合わせて動くようになったので、少しだけ楽でした(笑)その頃、僕は「怒られないようにするにはどうしたらいいか」ばかりを考え、顔色を伺い、怒られないようにセンサーを働かせるという事をしていて。弟子としてどうなのかは分からないですが、とにかく怒られないようにして、あわよくば褒められようという、何というかセコい毎日でしたね(笑)

【楽曲紹介1:思い出のCMソング】
望月:このあたりで「思い出のCMソング」をご紹介頂けますか?

中島:僕が小学校6年生の頃の曲を。僕は小さな頃から歌が好きで、歌番組もよく見ていたので、歌番組からヒットが生まれるという事は分かっていたんです。でも、ちょうどその頃コマーシャルから生まれた大ヒット曲があったんですね。そのコマーシャルはチャールズ・ブロンソンが出演した「うーん、マンダム」という台詞のもので。一体何のコマーシャルなのか、幼い僕には全く分からなかったのですが(笑)。そこで流れていたのが「男の世界」という曲なのですが、顔と曲のイメージでこの曲はチャールズ・ブロンソンが歌っているものだと僕は思っていたんですよ。ところがいざ父親にレコードを買ってきてもらうと、全然違う人が歌っていて(笑)。その時に、世の中の真実というものを知った気がしましたね。

#1 ジェリー・ウォレス「男の世界」


【ディレクターデビューと苦難】
望月:中島さんが師匠の下から一本立ちをされた作品はどのようなものだったのですか?

中島:師匠の下から卒業をしても、急にはCMの仕事は来ないものなんですよね。ただ会社を挙げて「中島に一本CMやらせよう!」という機運があったようで、そのおかげで何とか出来るようになったんです。ただ、僕がやりたかったコマーシャルは川崎徹さんや糸井重里さんが手がけていたようなナンセンスでギャグっぽいものだったのですが、実際やる事になったのは、それとは全然違う松下電器の600種の換気扇を紹介するというもので(笑)。次々と違う換気扇が出てくる歌もののミュージカル風なコマーシャルだったんですけど、僕はミュージカルなんて一本も観た事が無くて。おまけに歌も「もくもくもくもくもーくもく」というどうしようもないもので(笑)。

望月:ベタベタじゃないですか!(笑)。

中島:CMは当時デビューしたばかりだった藤吉久美子さんに煙に見立てた風船をぶつけていくというものだったのですが、企画を考えた関西のプランナーの人に話を聞いたら「ゴッホの自画像の前を通るシーンで、ゴッホがゴホッと咳をするシーンを入れろ」と言われて(笑)。

望月:ははは(笑)。

中島:この時は僕にとっては初めてのコマーシャルですから「何とかモノにしなくては」と、壮絶に働いて作った記憶がありますね。今から大体30年前の話ですが。

望月:CMはヒットしましたか?

中島:泣かず飛ばずでしたね。60秒CMだったので、たまにしか流れませんでしたし、流行っているようなスタイルのCMではなかったので。その一本を経て、しばらく僕は仕事がありませんでした(笑)。

望月:そこから破竹の勢いでCMを作られていくのかと思っていました。

中島:全然です。やっと来た二本目の仕事がよりにもよってファッション関係のもので。僕にファッションなんか出来る訳が無いんですよ(笑)。頑張って作ったんですけど、結果は「うわあ……」というようなものになってしまって。そうしてデビューから一年後に三本目のCMを手掛ける事になったのですが、その時は制作途中に「こいつが監督じゃダメだ」と広告会社の人に叱られ、途中降板を余儀なくされたんです。

望月:厳しいですね……。

中島:その時は、一体これからどうしたらいいんだろうと思いましたね。どうせ成り行きでこの世界に入ってきたのだから、僕にディレクターは無理なんだと思って。「そもそも僕はビートルズになる予定だったじゃないか」と(笑)。そうして仕事から逃避してライブ活動をしたりもしたのですが、ライブをしたらしたで、周りには上手い奴がいっぱいいて「こっちの世界も厳しいなあ」と、まさに八方ふさがりという感じで。そんなヤングライフでしたね(笑)。

【デジタルと実験的コマーシャル】
望月:そこから第一線に復帰されたきっかけはどういったものだったのですか?

中島:その頃に「ベストヒットUSA」という番組をテレビで見まして。アメリカやイギリスのアーティストのプロモーションビデオを紹介する番組だったのですが、まだ日本にそういったものがあまり無かった頃に、黒船のようにそれらが一気に押し寄せてきたんですね。それを見て、相当に衝撃を受けたんです。次から次へと、それまでに見た事が無いような映像が流れてきたので。僕はそれを見て「こういった映像を作る事が出来れば、世の中の名だたる監督たちとちょっとは勝負できるかもしれない」と思ったんです。当時はアナログ編集の時代で、アース・シェイカーというバンドが実験的な事を試みては失敗したりしていて(笑)。

望月:アース・シェイカーっていましたね(笑)。

#EARTHSHAKER
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中島:そんな中、我々東北新社は給料が安い代わりに映像編集に関しては機材を充実させる会社で、社長が「これからの時代はこれだ!」とデジタルの機材をイギリスから導入したんです。それを見た時に「これを使ったら、あのすごい映像が作れるかもしれない」と直感的に思って。誰もそんな事を試みてはいなかった時期ですから、監督としてどうかというのは置いておいても、変わった映像が作れるやつとして自分を売り込んでいけるのではないかと。
そうしてデジタルにのめり込んでいって、実験的なコマーシャルを幾つも作るようになったんです。1987年からそういった作業を始めたのですが、中でも当たったと思った作品が1989年のアリナミンVのコマーシャルで、アーノルド・シュワルツェネッガーがビンの中から出てきて「ちちんぷいぷいだいじょうブイ」と言うものでした。このCMは結構目立ったんですよ。

#アリナミンV CM

ところが黒田秀樹君という僕の同級生で、僕がパンプキンをやっている時に「銀童子」というバンドをやっていたライバルの男が同時期にリゲインのコマーシャルをやっていたんです。そして、僕のコマーシャルは黒田に完全に負けていたんですよ。ただ、映像としては画期的だったので色々なクリエイターの方が目を付けてくれました。

【ディレクションとプランニング】
中島:当時電通に所属しておられた天才、佐藤雅彦さんも、僕の手掛けた映像に感銘を受けた一人だったようです。未だにどういう評価なのか良く分からないのですが「あの映像は素晴らしいですね、ファインですね」と言ってくださって。「ああ、ファインですか」と言ったら、「ファインです」と(笑)。「ただ、信也さんの映像はファインなだけで、企画が無いんです」と言われ、「僕の企画と信也さんの技術で映像を作れば、凄いものが出来ます」と。「こいつ、失礼な奴だな!」とその時は思いました。「わしは何も考えず、ただ走ればいい馬ってことか!」と。
ただ、佐藤雅彦さんはやはり天才だった。実際に一緒に企画をやってみると、到底僕では太刀打ちできないような物が次々と飛び出してくるんですよ。僕はそれまでスーパー・ディレクターにならないといけないという自分へのプレッシャーがあったんです。原作から演出まで全て自分一人でこなさないといけないと。ただ、佐藤雅彦さんと組んだ事で初めて企画と演出が分かれている事の意味を知って、そのプレッシャーからは解放されました。

望月:いまは広告代理店にはプランナーが居て、それを映像化するのがディレクターといった具合に分業化が進んでいますよね。でも、昔はプランニングも含めてディレクターの仕事だったそうですね。

中島:昔は「どんなプランを立てるのか」という部分も含めて、ディレクターの資質が問われていました。実際、僕も「企画は自分で出来る」と半分思ってました。ただ、佐藤さんと出会った事で企画の凄さを感じたんです。そして、佐藤さんが仰った技術と言う言葉も僕には新鮮に響いたんです。
「デジタルにのめり込む事で、自分は技術を磨いていたんだな」という事がその時に分かって。デジタルの演出技術を使って、クリエイターのアイデアを形にするというのは有りだなと思うようになったんです。すると、色々な人と組む事が出来ますよね。例えば、アートディレクター。これまではデザインの世界、グラフィックの世界、テレビの世界は全然ばらばらに離れていたのですが、僕みたいな人間が居る事によって、アートディレクターがCMの世界に入ってくるという事が出来るようになっていったんです。

【「hungry?」キャンペーン】
望月:日清カップヌードル「hungry?」キャンペーンは、まさにそうして中島さんが別のアートディレクターと組む事により生まれたキャンペーンですよね。

中島:「hungry?」は、当時博報堂に所属していた大貫卓也さんという天才アートディレクターによるアートディレクションと僕が培ってきたデジタルの技術を組み合わせて生まれた、当時としてはトップランクのCMだったと思います。元々、大貫さんはデジタルはあまりにデジタルデジタルし過ぎているので、もっと実写に拘りたいという思いがあったようです。だから、実際にでっかいマンモスを作って、キリマンジャロのような丘で撮影をしようと考えていたみたいで。ただ、それを実写でやるとなると9億円かかると(笑)。
「これはあまりにケタが違いすぎるから、デジタルを使うしかない。デジタルと言えば、中島信也を使うしかないんじゃないか」という事になり、中島信也が投入される訳です。

#日清カップヌードル「hungry?」キャンペーン

ところが大貫さんは僕の事があまり好きじゃなかったみたいで。「デジタルのコマーシャルでちょっと目立って、ヒゲなんか生やしたりしてるカッコつけた奴」ぐらいに思っていたようで。ただ実際に一緒に作業をして、大貫さんが作りたいアナログっぽい本当に実写でやっているかのような世界観を作っていくうちに、段々と仲良くなっていきました。

望月:「hungry?」の作業は大変だったでしょうね。

中島:今はコンピューターの性能が上がっているので、ほぼリアルタイムに近い速度で合成やレンダリングが出来るのですが、当時は処理が1コマ1秒より遅かったと思います。レイヤーもそんなに重ねられなかったですね。10日間、寝ずに気を失いながら作業していましたね。そして大貫さんが「ここを変えたい」と言うと、またさらに作業して。今思うと、ヤングだったから出来たんだろうなあという感じですが(笑)。

望月:そうして作られた作品が世界でナンバーワンになった訳ですね。

【楽曲紹介2】
望月:このあたりでもう一曲ご紹介頂けますか?

中島:僕は決してイケイケではない人生を歩んできていて、むしろセコく人の事を羨み、やきもちをし、嫉妬をし、そういった物を乗り越えて生きてきたんですね。そうして生きてきた中で物凄く衝撃を受けた曲が、ジョン・レノンの「ジェラス・ガイ」という曲でして。
この曲を斎藤和義さんが日本語で作詞をして、カバーしているのですが、この詞がヤバいんですよ。男の女々しい部分を見事に引っ張り上げていると言いますか。

#斎藤和義
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僕はこの曲をライブで初めて聞いたのですが、斎藤和義は背が高くて、お尻が小さくて、足が長くて、「こういう奴がロックをやるべきだったんだ!」と思いました(笑)。そのちょっと前まで僕は本気でロックミュージシャンになろうと思っていたのに、その日に僕はロックを辞めたんです。

#2 斎藤和義「ジェラス・ガイ」


【人の気持ちを表現する】
望月:「hungry?」でカンヌ広告祭グランプリを受賞された後、中島さんの作品は段々と作風が変わってきていますね。最近で言うとサントリーの「伊右
衛門」やドコモの渡辺謙さんのシリーズですとか。何か心境の変化などがあったのでしょうか?

中島:「伊右衛門」は永井一史さんというアートディレクターの方と一緒に作った作品なのですが、僕は「暖簾なんかを使った端正な風景のコマーシャルになるんだろうな」と思っていたんです。
ところがちょうどその頃「冬のソナタ」事件がありまして(笑)。「hungry?」を一緒に作った大貫卓也さんが「冬のソナタ」にめちゃくちゃはまっているという話を聞いたんです。奥様方がキャーキャー言うのは分かるんですが、何故大貫さんがはまるんだろうと。すると大貫さんに「え!冬ソナ見てないの?演出として有り得ないね!」と言われてしまって(笑)。
ちょうど東北新社では冬ソナの日本語版を作っていたので、それが入ったDVDを大貫さんにあげたら、めちゃくちゃ喜んでくれたんです。「これは何かあるのかな?」と思って、戯れにと僕も見てみたら、まあこれが面白い。
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何が面白いかと言うと、勿論ストーリーも面白いのですが、何よりもそれを演じる役者さん達の表情ですね。役者って、こんなに人の気持ちを表現できるのか!と驚いたんです。それまでにもずっと役者さん達と仕事をしてきたにも関わらず、役者は人の気持ちを表現する動物なんだという事にその時初めて気が付いたんです。
そこで「伊右衛門」が始まったばかりの時に、宮沢りえさんに「凄い事発見した!」とその事を伝えたんです。宮沢りえさんには先に話したアリナミンVのコマーシャルに出てもらったりもしていて、彼女は僕の事をデジタルの技術を使ってポップでキッチュな世界を作り続けている人だと思っている節があったので、僕がそういう事を言う事に驚いて。だから「伊右衛門」の世界も単なる様式美ではなく、妻と夫の心の揺れ動きと言うものを描いた方が面白いのではないかという心持になったんです。そういったものを役者さんに表現していってもらおうと。

#伊右衛門 SUNTORY

まあ韓流ドラマのように物凄く意外な事実を出したりは出来ないと思いますが(笑)。そうして出演者の気持ちや心に、興味が向くようになっていったんです。(人の気持ちを描く方が)変わった映像を作るよりも、人の心に表面的ではなく届いていくものになるという事を、冬ソナをきっかけに感じるようになったんです。そういった事を伝えると、宮沢りえさんは的確に演技をしてくれるんですね。役者さんに演技をしてもらうってこういう事なんだなと思いましたね。今まで全然知らなかった快感だなと。そうして、別の世界が開けていったんです。

望月:中島さんは劇場用映画「矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜」の監督をされていますが、この作品を手掛けたきっかけと言うのもやはりそういったところにあるのでしょうか?

#「矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜」

中島:違うと思います(笑)。昔からとんねるずさんとは付き合いがあって、若くてシャレの分かる監督として「とんねるずのみなさんのおかげです」や
「生でダラダラいかせて!!」のオープニング映像を作らせてもらったり、飲み会に参加させてもらったりしていたんです。
「みなさんのおかげでした」の「したっ」っていう文字は僕が書いたんです(笑)。

#「とんねるずのみなさんのおかげです」オープニング
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彼らが番組の中で矢島美容室というユニットを組み、彼らはそれを映画にしたいと。「こどもたちに夢を与えたい」と言って、映画を撮るなら監督は信也さんしかいないと白羽の矢が立ったんです(笑)。僕は「伊右衛門」とかそういった良い感じの世界の中に居たので、突然矢島美容室がやって来てがちょーんという気持ちだったのですが。
ただ、人の気持ちを伝えるという部分では通じるものがあるし、基本はミュージカル調のおちゃらけた映画なのですが、それだけではなくベースには人の気持ちが脈々と息づいていて、最終的には心で感じられる作品にしようという事を、誰も気づかないかもしれませんが僕としては心がけていて。全然違うラインの作品ではあるのですが、中には泣いて頂いた方もいたみたいですし、僕が別の世界で感じた魅力を何とか結実させようと作った作品ですね。

【テレビの復興】
望月:これから中島さんはどんな作品を作っていきたいとお思いですか?

中島:来年の8月で一本目の換気扇から30年経つんですね。90年代に色々なプランナーやアートディレクターとの出会いがあって、それは最高にラッキーだったなと感じているんです。
一つ大きな変化としてリーマンショックがあり、以来コマーシャルの位置付けは随分と世知辛くなっていったんです。効率と言いますか「その広告を作って、どれだけのリターンがあるんだ」という見返りを前提とした広告作りに、広告主さんの意識ははっきりとではないにせよ移ってきているように思います。やはり広告主さんは無駄なお金を使いたくないので。
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でも、僕たちの育ってきた時代の広告は「マンダム」にせよ物凄く夢があったし、そこには知らない世界が広がっていたんですよね。やはり、コマーシャルは物を売ると言うだけではなく、人の心を豊かにするものではないかなと。リーマンの後って、何となく世の中全体が勝ち組、負け組に分かれて行くような感覚があったんです。でも今回の災害であれだけの犠牲者が出た中で、今は皆、勝ち組負け組とか言ってないで一つにならなくてはいけないと思っているんじゃないかなと思うんですよ。震災の際、コマーシャルが一斉にストップしたのですが、これを機にコマーシャルのクオリティを見直し、人の住んでいる環境としてのコマーシャルとして、もっと夢があり、美しく、楽しいものや、日本や世界の美しい自然や伝統を伝えるものだったり、喜びを伝えるものがもっともっと溢れていなくてはいけないと思います。まだいまは経済観念に向き過ぎている企業の姿しか見えてこないですし、そうなると段々とお茶の間がそっぽを向いてテレビやCMを見なくなっていきます。
でも、そうなっちゃいけないと思うんですよね。やはり、人の心を豊かにする環境の一つとしてテレビジョンがあり、その中に非常に手間とお金をかけた映像が流れる。これから高精細のテレビジョンの時代になりますから、もっともっと美しく魅力的なコマーシャルを作らないといけません。今はまだまだ美しいテレビコマーシャルが少ないので、僕は頑張るぞと言う気持ちでいます。美しく、人の心を豊かにする素敵なCMが溢れているテレビの復興を本気でやっていかないといけないのではないかなという気持ちですね。

望月:是非、これからも素敵なCMを作り続けてください。本日のツタワリストはCMディレクターの中島信也さんでした。ありがとうございました。

中島:ありがとうございました。

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