Interview_kirishima of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

HOME > Interview_kirishima

桐島ローランド (フォトグラファー)

【写真との出会い】
望月:桐島さんは高校時代から写真を始められたそうですね。

桐島:写真自体はもっと小さな子供の頃から好きでした。母がジャーナリストだったもので、家の中にはカメラが転がっていて。まあフィルムは入っていなかったんですけど(笑)。そうしてカメラをいじりつつ「いずれは俺もこういったもので仕事をしたいな」と思ってました。
DSC_0302.JPG
望月:最初に撮った写真ってどんなものでしたか?

桐島:最初に写真を撮ったのは幼稚園ぐらいの時で。学研の「学習と科学」の付録に付いてきたピンホールカメラで、その頃住んでいた横浜のマンションの屋上から、建設最中の横浜スタジアムを撮ったんです。自分の部屋に暗室を作って写真を現像したのを、今でも覚えてますね。

望月:出来栄えはどうでしたか?

桐島:結構上手に撮れたんですよ。自分で初めて撮った写真を現像して、それが浮き上がってくる様子はやっぱり感動しましたね。

望月:「こんなもので写真が撮れるんだろうか」と子供の頃は思ってしまいますよね。

桐島:そうですよね。カメラなんてただの箱にしか見えないから(笑)。

【高校時代のアシスタント経験】
望月:高校に入ってからは、より本格的に写真を撮るようになったんですね。

桐島:俺、不良だったんですよ。別に他人に危害を加えるような事はしませんが、ヤンチャで(笑)。ディスコに行ったりしましたよね?

望月:しましたね(笑)。当時はやっぱりディスコでした。

桐島:時効だから言いますけど、当時は夜の六本木に行って大人の人達と一緒に遊んだりもしたわけですよ(笑)。そういった場に集まる人はやはり業界の人が多くて、そのうちの一人がカメラマンだったんです。そのカメラマンはちょうどアシスタントをクビにしていて、バーで「誰か良い奴いねえかな」なんて言っていて。その時、ちょうど俺は夏休みで暇で「小遣い稼ぎたいな」なんて思っていたんですよ。
そこで、そのカメラマンの人に、「アシスタントやらせてください」と頼んでみたらOKが出て。その事がきっかけで、写真を(本格的に)やりだしたんですよ。

望月:その頃からアシスタントをしていたんですね。

桐島:ただ、それは本当に夏休みの間だけで、その後は週末とか暇な時に付いていったぐらいでした。だから、彼の下に居たのはせいぜい2~3カ月ぐらいのものです。後はニューヨークの大学に入ってから、インターンでカメラマンのアシスタントをしたりはしましたね。でも、本格的に誰かの下で2~3年修行をした経験は無いです。普通、カメラマンの業界ではそういった修行をするんですけどね。

望月:桐島さんはモデルもされていましたよね。

桐島:アシスタントとして現場に行った時に、編集の人に「君ちょうどいいからモデルやってよ」と言わ
れて、やったりはしましたね。

望月:モデルの仕事はアシスタントの延長だったんですか?

桐島:元々はそうです。モデル事務所に入ったのはその後の事で。実は俺、恥ずかしながら一度「POPEYE」のモデル募集に応募して、落ちてるんですよ(笑)。

望月:あ、そうなんですか(笑)。

桐島:モデル募集に落ちて、暇で「小遣い稼がないとな」と思っていた矢先にカメラマンのアシスタントをする事になったんですよね。そうしてアシスタントをしていたら、モデルをするようにもなった(笑)。不思議なもんだと思いますね。

望月:写真を撮るうちに、自分の才能を感じたりはしましたか?
DSC_0310.JPG
桐島:いや、それは全然です。ただ、機械は好きですし、当時は外国人のモデルを撮影する機会が多かったので、英語が喋れる自分には天職じゃないかとは思いました。

望月:桐島さんは元から英語が喋れるのですか?

桐島:小学校2年生の時に家族でアメリカに移って、2年ほど向こうで暮らしていて。その後帰国してからは、インターナショナルスクールに通っていました。特に努力をした訳ではないのですが、英語はその頃に自然と身に付きましたね。
カメラマンは当時はそこそこ稼げる職業だったんですよ。可愛いモデルに会えるし、自分は英語が喋れるし、そこそこ稼げるともなれば、もうこれは天職だなと(笑)。

望月:ははは(笑)

桐島:後、俺はおもちゃが大好きで。うちは母子家庭で、母親が厳しい人間だったので中々おもちゃとか買ってもらえなかったんです。女性だし、俺が内心「野球のグローブが欲しいな」と思っていても分からないんですよ。「野球なんかして何が楽しいの?」から始まってしまうので(笑)。こっちとしてはそんなこと言わずに買ってほしいのに、買ってもらうためには一々頭を下げなくてはいけなくて。

望月:ちなみに桐島さんのお母様は、作家の桐島洋子さんです。

桐島:そうです。とにかくおもちゃは中々買ってもらえなくて。でも、たまたまカメラだけは家に転がっていたんですよ。そうして、カメラをいじるようになったんです。

【ニューヨーク大学への進学】
望月:ニューヨーク大学への進学は写真を学ぶためだったんですか?

桐島:アメリカで写真を学べる大学は当時、ボストン大学とニューヨーク大学だけだったんです。アートスクールは沢山あるんですけどね。
うちの姉の桐島かれんは上智を中退して、エスモードっていうファッション系の学校に行っていて。もう一人の姉の桐島ノエルも大学を中退しているんです。
で、うちの母も作家の割には高卒なんです。だから、別に学歴コンプレックスがある訳ではないのですが、せっかくアメリカンスクールに通ったんだし、一人ぐらいはしっかりとした大学を出てほしいと言われていたんです。
ニューヨーク大学は日本で言うと日大芸術学部のような学校で、アートスクールでは無いし、しっかりとした大学で。そこで「ここなら良いのではないか」と思って受けてみたら受かったんです。

望月:ニューヨーク大学での生活はどうでしたか?

桐島:勿論、楽しかったですよ。ただ、大学の仲間は地方から出てきている人が多くて。案外、都会に住むのが初めてという人が多かったですね。

望月:案外、ダサダサだったりとか……?

桐島:大きな声では言えないですけどね(笑)。ダサいんですよ。写真も下手な奴が多くて。

望月:選考は写真で選ばれるんですよね?

桐島:そのはずなんですけどね。僕もブックを作って「こんな感じで大丈夫だろうか」と不安な気持ちで送りました。そうして受かって教室に行ったら「ええ!」って感じで。
教室に写真が貼りだされるんですけど、きちんと取れているのは2人か3人ぐらいしか居なくて、他は「 写ルンです」で撮ったような写真ばかりだったんですよ。俺はカメラマンのアシスタントをやっていたので、そこそこの写真を撮れたんですよ。でもそういう奴は他には一人もいなくて。だから最初はがっかりしましたね。
DSC_0330.JPG
でも、アメリカが凄いのは、やっぱり4年経つと皆上手くなって。卒業の頃にはすっかりクラスメイトに圧倒されてしまいましたね。

望月:そこからメジャーになった写真家もいますか?

桐島:俺よりも遥か雲の上の存在の写真家が何人かいますね。

【楽曲紹介1:思い出のCMソング】
望月:このあたりで思い出のCMソングを一曲ご紹介頂けますか?

桐島:マッドネスって覚えてないですか?ちょっとスカ系のイギリスのグループで。「アワ・ハウス」って曲とか。

#マッドネス
images.jpeg

#「アワ・ハウス」 マッドネス


望月:ありましたね。

桐島:ホンダ・シティって車ありましたよね。あの車のマッドネスの「In The City」のCMは良かったですよね。皆で踊るやつ。あの頃のホンダのCMは凄く良かったと思うんですよ。

#ホンダシティCM


望月:あの頃のホンダのCMはことごとく良かったですよね。選曲が刺さりました。

桐島:そうなんですよ。あれを見て、カメラマンになろうと思ったと言っても過言じゃない。あれが俺のインスピレーションですよ。

#1 マッドネス「シティ・イン・シティ(In The City)」


【インターンで感じた壁】
望月:桐島さんは最初、ニューヨークで仕事をされていたんですか?

桐島:ちゃんとしたデビューは日本ですが、大学に居た内から、日本の雑誌に載る街角スナップとか
ニューヨークの新しいレストランの内装の写真を撮ったりはしてましたね。そういったものも馬鹿にはならなくて、積み重ねで分からなかった事が分かるようになったり、自信がついてきたりはして。そうしているうちにちょくちょく現地の仕事も入るようになりました。
でもそれは本当にマイナーな仕事で、人に自慢できるようなものでは無かったです。それでも、そこそこのクオリティーに仕上げる事は出来たんですけど、今思い返すとやっぱり当時の自分はへたっぴでしたね(笑)

望月:そのままニューヨークに残って仕事をする事は考えませんでしたか?

桐島:実は一度、諦めたんですよ。
大学4年の時に雑誌の編集部でインターンをしたんです。その雑誌は本格的なルポルタージュが載っていて、例えばオバマが大統領に就任したら真っ先に取材に行くような、結構凄い雑誌で。
でも載っているのはルポルタージュだけじゃなくて、しっかりとしたファッションのページもあって、腕の良いカメラマンが写真を撮っているんです。そういったところでインターンをしたら、腕の良い人たちの仕事が見れるんじゃないかと思ってインターンをしたんです。
DSC_0305.JPG
でも、実際にやってみたら「俺なんか絶対無理だ」と思ってしまって。アメリカのトップの現場は夢だけれど、実際にやっていけるだろうかと。俺はフォトエディターのアシスタントだったんですけど、まず毎週山のようにポートフォリオが送られてくるんですよ。それも俺が名前を知っているような著名カメラマンのブックなんです。
その中からまずはアシスタントの俺が気に入ったものを選び取ってカラーコピーして、ファイルにして編集長のデスクに置くんです。それを1年間続けたんですけど、実際に採用された人は一人もいませんでしたね。既に錚々たるメンバーが居るので、誰かが辞めない限りそこに入っていけないんですよ。

望月:ある種、権威主義的な面があったんですか?

桐島:実力だけだとは思うんですけど、やはり当時はまだ20代の奴は絶対に仕事をさせてもらえないような雰囲気はありましたね。その後になってやっとニュー・フォトグラフィーが出てきて少しずつ変わっていったんですけどね。

望月:そういった現場を見て「これはちょっと入っていけないな」と思ってしまったんですか?

桐島:現実的に大学を卒業したら食っていかないといけないっていうプレッシャーが大きくて。一方で当時の日本はバブルで、撮影隊が次々にニューヨークに来ては派手に撮影するし、ばんばん金は使うし、という感じで。俺はコーディネーターをやっていたのだけれど、それだけで十分食べていけたんですよ。
カメラマンをやっているよりずっといいんじゃないかと思って、一時はずっとコーディネーターをやっていたんです。

【日本への帰国】
望月:そうしてニューヨークで仕事をされた後、日本に帰国される訳ですね。

桐島:実はコーディネーターの仕事で失敗をしてしまって。
俺は日本のドラマのキャスティングの仕事をしていて、依頼があったので現地の有名なDJをキャストしたんですよ。そうして彼を撮影現場に向かうタクシーに乗せてバイバイと手を振って見送ったところまでは良かったんですけど、肝心の彼が現場に付くまでの間にタクシーの運ちゃんを暴行して牢屋に入れられてしまったんですよ(笑)。
当日はヘリコプターの撮影シーンがあったんですけど、彼が現場に来なかったもので随分とお金がかかってしまったようで。俺は責任を取らされて、仕事をクビになってしまったんです。
俺自身はやる事は全部やったのに、それでもクビだなんて理不尽だとは思ったんですけどね。それでちょっと落ち込んでしまって、しばらく帰って無かったし日本に遊びに帰ろうと思ったんです。ちょうどうちの姉が結婚して子供が生まれたので遊びに来てほしいとも言われていたので。その時についでにポートフォリオを持っていくつか営業をしてみたら、仕事が入ったんです。

望月:営業はどういったところを回ったんですか?

桐島:アテがあるところですね。CREAFRaUPOPEYEとかいくつか回って。最初にCREAが仕事をくれて、何の実績も無い俺にいきなり表紙と巻頭ページをやらせてくれたんですよ。
DSC_0318.JPG
望月:いきなり表紙と巻頭ページですか!それはラッキーでしたね。

桐島:ラッキーでした。でもそういうものなんですよ。たまたま作品を見てくれた担当の人がピンときて仕事が決まった訳ですけど、もしもピンと来てなかったらその仕事はしてなかった訳ですし、それが無かったら次のステップにも行けて無かったと思うんですよ。やはりすごく運が良かったと思います。

【ファッション写真の魅力】
望月:日本に帰国後は雑誌のファッション写真を中心に手掛けられるのですか?

桐島:そうですね。姉がファッション系の学校に通っていましたし、僕もファッションは好きでモデルをしたりしていたので。80年代のファッション業界はバブルで凄かったじゃないですか。ファッション誌が沢山あったりして。
そういったものへの憧れはやはりありましたね。

望月:ファッション写真の一番の魅力って何ですか?

桐島:ファッションって生活の提案であり、一つの人間像の提案なんだと思うんです。そう考えると新たなモードやインフルエンスを取りこんで表現するというのは、アーティスティックな一面もあり、当時はとても面白い事だったと思うんですよ。
90年代はそういった事に挑戦する意識が強い時期だったと思うので。色々な事にチャレンジさせてくれたし、出版社にそういった余裕がありました。今はもう単なるカタログですよ。服がちょっとでも写っていなかったらもうダメです。時代が全然違いますね。

望月:桐島さんはアーティスティックな方向を目指されていたんですか?

桐島:勿論です。世界に通用する事をテーマにやっていたので。ただ、ナチュラルなものへのこだわりはありましたね。90年代は皆キツいメイクをしてガチガチなポーズをしていたけれど、そうではなくて息が抜けたカメラを意識しない一瞬を目指してやってましたね。
勿論、写真を撮っている訳だからそんなのは不自然なんだけれども、そういった瞬間ってあるじゃないですか。そういうナチュラルな写真って今は当たり前で皆やっているんですけど、意外と90年代はガチガチでしたよ。自然な写真を撮れる人は少なかった。

【ファッション写真と広告写真】
望月:桐島さんはファッション写真の他に、徐々に広告も手掛けるようになっていったんですね。

桐島:ファッション写真をやっていると、自然と広告のオファーも来るようになるんですよ。代理店の人
は常に新しい人を探しているので。そういった意味で、ファッションの世界を登竜門に広告に行くという事は普通にありましたね。

望月:ファッション写真と広告写真の違いってどんなものですか?

桐島:どちらも商業写真だから本当はそんなに差は無いです。ただ広告に関してはあくまでクライアントが商品を売るためのものだから、絵コンテなどが用意されていたらそれに忠実に撮る事がプロのカメラマンのミッションになりますね。
自分の特色を出す事も勿論大事だろうけれど、まずは自分のセンスに拘りすぎずにクライアントの要望にしっかりと答える事です。そのカメラマンが選ばれるって事は当然上手いし、特色があるから選ばれるという事なんでしょうけど、そこは難しいところですね。
ファッションは割と自由にやらせてくれるんですけどね。絵コンテなんて作らないし、基本的にその日に現場に行って服を見て、選んだモデルを見てメイクを指示して、「この雰囲気にはここがいいかな」と臨機応変にやりますね。
DSC_0347.JPG
100%きっちりと計画してやる事も出来るんでしょうけど、現実的に日本だと予算もそんなには無いし、臨機応変にやっていく中で100パーセントの力を出せるかどうかが腕の見せ所になりますね。逆に広告は100パーセントきっちり決まっている分、楽なんですよ。ちょっとしたライティングやアングルで差をつけるかどうかといったところです。

望月:例えば昔の化粧品メーカーの広告なんかは魅力的な写真が多くて影響力もあったと思うんですけど、桐島さんは自分の写真が「刺さったな」と感じる事はありますか?

桐島:影響力があるかどうかという事ですよね。難しいところですね……。実際、そんなに広告をやっている訳では無いので。むしろ雑誌が好きで、ずっと雑誌畑の人間なんですよ。
広告の場合、俺みたいなカメラマンはむしろ使いづらくて。腕があって名が無い人の方が使いやすかったりもするんですよ。でもやっぱり街を歩いていて、自分の撮ったポスターが貼りだされていたりすると嬉しいですね。電車の中吊りとかも、見ると嬉しいです。
ただ最近はそういった写真でクオリティが高いものは本当に減ってしまったので、見なくなりましたけどね。90年代や80年代は面白い事が出来た時代だったので、自分の写真が出ると嬉しかったんですけどね。

【楽曲紹介2】
望月:このあたりで「今の気分」という事で、もう一曲ご紹介頂けますか?

桐島:サイモン&ガーファンクルの「The Only Living Boy In New York(邦題:ニューヨークの少年)」のエヴリシング・バット・ザ・ガールによるカバーを。この曲が何故だか知らないんですけど、最近ずっと頭の中でかかってるんですよね。

望月:一時期、エヴリシング・バット・ザ・ガールはオシャレ系で流行りましたよね。

#エヴリシング・バット・ザ・ガール
Unknown-1.jpeg

桐島:エヴリシング・バット・ザ・ガールは何故かiPodに入っていて。普段は好きな曲しか聴かないんですけど、アルバムを何となく全曲通して聴いていたらこの曲があったんですよ。聴いてみて、良いなあと思いましたね。

#2 エヴリシング・バット・ザ・ガール「The Only Living Boy In New York(ニューヨークの少年)」


【ムービーの面白さ】
望月:桐島さんは最近、ムービーも撮られているそうですね。

桐島:写真の世界でもデジタルによる革命がおきましたが、映像はなおさらなんですよ。
いまデジタル一眼レフを買ったら、普通にハイビジョンの映像が撮れるじゃないですか。今のカメラはプログレッシブで24コマでして。映画は1秒間に24コマなんですよ。
一方、ビデオは30コマから60コマなんです。普通は24コマの方が自然でリアルな画になるんですけど、今までは普通にお店で売ってるようなビデオカメラでは24コマのシネモードでは撮れなかったんですよ。
でも今のカメラは全部プログレッシブの24コマで撮れるようになってて。まるで映画のような画が撮れるんですよ。それがすごく面白くて。しかも全然高くなくて、せいぜい10万円ぐらいでそういうレベルのカメラが買えちゃうわけです。誰でも映画を撮ろうと思えば撮れちゃうわけですから、すごく良い時代になってますよ。

望月:やはり映像を作りたいという思いが強くなっていますか?

桐島:写真が終わったと言うつもりは全然無いです。ただ、今は求められる写真がカタログなんですよ。(生活の)提案とかじゃなくて、求められているのはどこでいくらで売っていて、どういう色合いなのかというような事で。
だから、ブレた写真とかじゃなくてきっちりとした写真になるんです。今の若い子は特にそうだと思うんですけど、自分でイメージして服を買うんじゃなくて、写真で見たものをそのまま欲しいというような傾向になっているんですよね。面白くないんですよ。
あまり大きな声では言えないですが、広告が入ると、その広告を出してくれた洋服屋さんの服を載せる訳ですが、いまはコーディネートさせてくれないんですよ。昔はシャツはどこのもので、パンツはどこのものでとコーディネートをしていたんですけど、いまは全部ルックが決まっていて。
DSC_0360.JPG
そんな中で面白い表現をしようとしたって、それはもうカタログの延長なんですよ。クオリティーは今でも高いと思いますよ。写真のクオリティーが落ちたという事も無いと思います。
ただ、やっていて自分のインプットが活かせる場なのかと言うと、そうでは無くなってますね。それにデジタルで撮るとみんな似たような写真になって、独特の味が失われてしまっていて。そういったところからそろそろ脱皮したいという気持ちですね。その点、ムービーは楽しいんですよ。写真ってある意味一人で完結出来てしまうものですけど、映画は色々な人とコミュニケーションしながら作っていきますよね。それが俺からしたら新鮮なんですよ。写真は1日で全てが完結するので、何万枚も写真を撮って来ましたけど、思い出に残らないんですよ。でも映画は現場で何カ月も戦いながら作っていく訳です。写真にはああいった楽しさは無いですね。

【震災後の心境の変化】
望月:桐島さんは東日本大震災以降、何か心境の変化などはありましたか?

桐島:色々深く考えるようになりましたね。このままじゃ駄目だなと。
震災が発生した時、テレビCMがストップしましたよね。あれが再び流れ出した時の違和感といったらなかったですね。「流していいのか?」という気持ちになって。実際、今も状況は変わってないですよね。
勿論、平常化も大事だとは思うんですけど、しっくりこないところは正直ありますね。広告業界は大好きだし、それがあったからこそここまで来る事が出来たとも思ってはいるんですけど、もっとしっかりと「伝える」という事が重要になってくるんじゃないかなとは思いますね。
だから、仕事でそれをやる事は良くないのかもしれないとも思い始めていて。自分で表現したい事は自分の名前でやって、仕事でやる事は仕事と割り切ってやった方が健全だなと。今まではクリエイターとして、そこを混ぜようとしていたんですよ。きっとファッションの人は皆そうですね。雑誌の誌面を利用して、自分の世界を表現したいと思っているところがあっただろうし、それが許された時代でもあったと思います。
でも今は仕事ではクライアントが喜んでくれる写真を撮ろうと思ってます。自分が表現したい事は個展をやるなり、ウェブで発信するなりしていこうと。アウトプット出来るところが昔に比べていっぱい出来た訳ですしね。そういった意味では、震災は自分を見つめ直す契機になったと思いますね。

望月:チャリティー活動もかなりされているようですね。

桐島:勿論。かなりの数やっています。それにもう個展でお金儲けをするのはやめる事にしたんです。だから今後個展をする時はすべてチャリティーにしようと思ってます。個展で写真を売った場合は、そのお金は全部寄付したいなと。

望月:アフリカにも行かれたそうですね。

桐島:TABLE FOR TWOというアフリカの貧しい地域の学校の給食を提供するチャリティー団体がありまして、アフリカにはその関係で行きました。
Unknown-2.jpeg
日本の企業の500円のランチのうち、20円がアフリカの学校の給食になるんですね。一人の大人のランチで、一人の子供の給食を賄える仕組みになっていて、結構色々な企業が賛同してやっています。その団体から「アフリカに行ってみませんか」とオファーされたので、是非とも行ってみたいなと思って。
アフリカには何度も行ってるんですけど、貧しい地域には行った事が無かったんです。実際に行ってみたら、やっぱり勉強になりましたね。正直、日本がこんなに大変な時期にODAとかやってる場合じゃないと思っていたんですけど、行ってみるとやはり現場は悲惨なんですよ。濁って無い水が飲めたら感謝するレベルで、学校の給食と言っても出てくるのは粉で出来たスープみたいなものが1日1杯出てくるだけなんですね。
でもそれを食べれば餓死せずに済む訳で、皆給食を食べるために学校に通っている。それを見ると、まだまだ俺たちは恵まれているなと思って。これで何かが劇的に変わるかは分からないですけど、支援したうちの一人が大きくなったら何か別の形で日本に恩返ししてくれるかもしれないというような事を考えながらやってますね。まだまだ日本は余裕があるし、こういう状況の時こそ懐を見せたらかっこいいと思いますね。

望月:これからのローランドさんの活躍も期待してます。本日のツタワリストは写真家の桐島ローランドさんでした。ありがとうございました。

桐島:ありがとうございました。

DSC_0372.JPG

TODAY'S EISUKE MUSIC SELECTION