Interview_oda of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

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織田哲郎 (シンガー/作曲家/プロデューサー)

【B.Bクイーンズ時代の二人の出会い】
望月:織田さんと僕の最初の出会いは、B.Bクイーンズでしたね。今から20年ほど前でしょうか。

織田:あの頃の望月君は、まだ美少年のような雰囲気が漂っていたね(笑)
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望月:織田さんとは、ちょうど僕が20歳の時にB.Bクイーンズとして一緒に音楽活動をさせて頂いて、よくスタジオにもお邪魔させて頂きました。今日は番組に来て頂いて、本当に光栄です。

【音楽を始めたきっかけ】
望月:織田さんが音楽を始められたきっかけはどのようなものだったのですか?

織田:元々音楽は聴くものとして好きだったのだけれど、自分でやるようになったきっかけは家にあったウクレレだったね。親父の友達か誰かがハワイ土産で買ってきてくれて家に置いてあったのだけれど、弾く人が誰も居なくて。それを俺がぽろぽろと弾いているうちに、色々な曲をやるようになったんだよね。

望月:ウクレレを弾く時は、教則本か何かを見ながら弾いていたのですか?

織田:「こういうコードがあるんだ」という感じで最初は見ていたけれど、そこから先は完全に自己流で、ウクレレで流行りの曲を弾いてみたりしていたね。まあ、ウクレレなんて随分と陽気な子供だよね(笑)。
小学校に上がってからは出来たばかりのブラスバンド部でトランペットをやり始めて、中学に上がるまで三年間続けてた。ただ、トランペットにはコードが無くて単音なものだから、自分的にはつまらなくて。音楽って、リズムとコードとメロディーがあるじゃない。昔からコードって概念は好きだったのだけれど、今でも僕はメロディーとコードがどう寄り添っていくかって事にはうるさいんだ。メロディーがここに行く時は、コードはここに無いと駄目だとかね。
だから、ブラスバンド部自体は好きだったけれど、自分がトランペットを吹くって事に関してはあまり最高という気分にはなれなくて。ピアノを習ったこともあったけれど、それもやっぱりつまらなくて。だって、バイエルからやらされるじゃない(笑)。レッスンには、ピアノを「楽しむ」って概念が無い。曲ですらない機械的な練習が嫌で嫌で、ピアノを見るのも嫌になってしまって。
だから、親にピアノを売ってもらった。それからしばらくピアノ恐怖症になっていたのだけれど、やっと中学生になってから先輩が弾くビートルズの「レット・イット・ビー」を聴いたりして「かっこいい!」と思って自己流でピアノを弾くようになったんだよね。



望月:織田さんと言うとギターというイメージがあるので、ウクレレやブラスバンドをされていたというのは意外な感じがしますね。

織田:ギターをやり始めるのは、まだ先なんだよね(笑)その後、イギリスの学校に引っ越したのだけれど、その頃の俺はむしろ絵を描くのが好きで、音楽は聴きながら絵を描くためのものって感じだったかな。何せ「俺は画家になる!」って言ってたから(笑)

【良く聴いていた音楽】
望月:レコードを買ったりはしていましたか?

織田:音楽を聴く事は本当に好きで、昼飯代を全部浮かせてレコードを買ったりしていたよ(笑)。とことん大食いだった俺がよくそんな事をやったものだと、今にして思うけどね。

望月:その頃は、どんな音楽を聴いていらしたのですか?

織田:当時は70年代の初頭だったから、グラムロックやプログレが多かったね。

望月:ブリティッシュ・ロックがお好きだったんですか?

織田:ブリティッシュ・ロックは好きだった。アメリカン・ロックなんてただ音がデカいカントリーじゃないかと思ってたからね。「Tシャツにジーンズでロックなんてするんじゃねえ!」と(笑)。ロックやるなら、ラメやサテンで光ってないと駄目だと思ってたんだ(笑)。
ブリティッシュ・ロックの他に好きだったのは、アメリカン・フォーク。ブリティッシュ・ロックとはまた少し違うけれど、それはそれで好きだった。小学校の時に初めて買ったシングルがサイモン&ガーファンクルで、それからソロになったポール・サイモンはずっと追っていたし、ボブ・ディランも俺の世代だと少し昔の人って感じがしていたけれど掘り下げて聴いたりして。後、他にはニール・ヤングなんかも聴いてたね。
#サイモン&ガーファンクル         #ボブ・ディラン
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#ニール・ヤング
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【ギターを始めるきっかけ】
織田:イギリスに居た時は周りにギターなんて置いている店は無くて、ギターを触ったことすら無かったんだ。ところが、イギリスから日本に帰って来てみたら井上陽水さんや吉田拓郎さんやかぐや姫さんの影響でフォークブームが起きていて。俺は日本でもう一度中学三年生をやることになって高知の学校に行っていたのだけれど、寮のあちこちにごろごろフォーク・ギターがあったんだよね。楽器があるとなったら、ウクレレの時もそうだったけれど弾かずにはいられなくて、ぱったり絵なんて書かなくなったんだよね(笑)。その頃から「俺はギタリストになる!」って言い始めて、そればかりやってたね。
#井上陽水         #吉田拓郎
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#かぐや姫
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望月:音楽は一人でやっていらしたのですか?それとも仲間とバンドをされたりしていたのですか?

織田:一番最初はクラスの奴と二人でフォーク・ギターを始めたんだけど、二人とも本当に好きなのはロックだったんだよね。そんなある日、そいつがベースを買ってきたんだ。
一方俺はエレキギターなんて親は買ってくれないし、寮に入っていたからバイトも出来ないしという感じで。そいつの従兄の誰かからエレキギターを借りて、そいつのベースと俺のエレキを一つのアンプに挿して、やっとロックを始めることが出来た。その後、高一の時に文化祭に向けてバンドを作る事になって、別の仲良かった奴に無理やりドラムを買わせたんだよね。そいつは医者の息子だったんだけど、「絶対ドラムカッコイイから、とにかくやれ!」と(笑)。それでなんとかトリオのバンドを組んで、高知の学校の文化祭でやったのが初めてのバンドだったんだ。あまり今とやってることは変わらないな(笑)。

【楽曲紹介1】
望月:このあたりで思い出のCMソングをご紹介いただけますか?

織田:ここは、自分の曲をかけてみようかと思います。1992年のポカリスエットのCMソング「いつまでも変わらぬ愛を」です。

#1 織田哲郎「いつまでも変わらぬ愛を」


【高校時代のバンド活動】
望月:高校で初めてバンドを組まれたということですが、活動はどんな雰囲気だったのですか?

織田:俺の通っていた高知の学校は校則が厳しくて、皆丸坊主だったんだよね。だからバンドもロックなのに丸坊主だし学生服だし、おまけに演奏もシュールなパンクバンドみたいな状態で……(笑)。歌だけは物凄いうまい奴が居て成り立っていたんだけれど、それもまるでヘドロの上に、何とかちゃんとした歌だけが乗っかっているような感じでさ。俺は一応耳は良かったからドラムの奴に「ドラムはこういう風に叩くと良いぜ」って教えたりはしていたんだけどね。でも、せっかく教えた奴も本番になると舞い上がっちゃって叩き方を忘れるんだよ!

望月:ははは(笑)

織田:ドラムなのに手と足が一緒にしか動かなくて、リズムがまったく自由自在でさ(笑)。ただ、そのバンドはある意味やっていて一番楽しかったバンドだね。

望月:その頃から、やはりプロは意識されていましたか?

織田:高校二年生の時に東京に引っ越して、一緒に音楽をやっていく事になる北島健二と出会ったんだ。北島とは「プロとしてやっていこう」という話をしていたよ。やっぱり当時から北島はめちゃくちゃギターが上手かったんだよね。
#北島健二
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望月:北島さんは本当にギターが上手いですよね。

織田:高知でバンドをやっていた時は同じバンドにめちゃくちゃ歌が上手い奴がいたから俺はギターとコーラスをやっていたのだけれど、いざ東京に来てみたら同じクラスに北島が居た訳でしょう。もう、ビックリしてしまって「東京やばいな。俺、ギタリストになるなんて言ってられねえな」と思ってしまったんだよね。しばらくすると北島が特殊だっただけだって、分かったんだけれどね(笑)。それからは、俺は歌をメインでやるようになったね。

【初めての音楽のプロとしての仕事】
望月:織田さんが最初に音楽のプロとしてされたお仕事は、どのようなものだったのですか?

織田:19歳の時に、後にビーイングを設立する長戸大幸さんと出会って「ちょっとレコーディングスタジオに来てみなよ」と誘われたんだ。実際にスタジオに行ってみたら、そこでは「ポパイ・ザ・セーラーマン」っていうディスコものの曲を作っていて。歌声も聴かないうちから「ちょっとコーラス入れてみてよ」って言われて、俺も賑やかしぐらいのつもりで歌ってみたら思いの他上手く歌えて、いくばくかのお金を貰ったのが最初の仕事だったね。「ポパイ・ザ・セーラマン」なんてしょうもない曲だったんだけど、ディスコですごく流行って結局30万枚か40万枚ぐらい売れて。実際にディスコに行ってみたら、「ポパイ・ザ・セーラーマン」に乗せて、皆全く同じ振りで踊ってて、びっくりした(笑)

望月:当時のディスコって、今のクラブとは違って曲ごとに振りが決まっていましたよね。

織田:「なんだ、これは!?」って感じだったよ(笑)

【曲を作る事と、客を楽しませること】
望月:オリジナルの曲を作って、発表したりはしていましたか?

織田:中三の時からオリジナルの曲自体は作っていたけれど、それを発表するって事はほとんど無かったね。高知で組んでいたバンドも東京でやっていたバンドも殆どコピーで、ツェッペリンとかばかりやっていたからさ。当時は今のように簡単に多重録音が出来るシステムも無かったから、部屋でシコシコとカセットテープを上手いこと使いながら一人で録音してたね。
#レッド・ツェッペレン
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望月:ピンポン録音とかありましたね(笑)

織田:あったあった。バックでノイズがシャーってなるんだよね(笑)

望月:すると、最初にオリジナルを発表したのはいつ頃ですか?

織田:21歳の時に北島と長戸秀介と「WHY」っていうユニットを組んでオリジナルを発表したのが最初だったんだけれど、それがまあビックリするぐらい全っ然、上手くいかなかったんだよね(笑)。

望月:そんなに上手くいかなかったんですか?(笑)

織田:今から思うと色々と原因はあるんだけれど、まず当時の俺にはステージ上でボーカリストとしてやっていけるだけの力量がなかったんだよね。ボーカリストって、実は音楽をやっている訳じゃないんだよね。ボーカリストは客商売をやっていて、何よりもお客さんを喜ばせるって事が歌うたいの一番の仕事なんだよ。
だから曲を歌うことでお客さんに喜んでもらおうとする人もいるし、合間合間で喋る時間が長い事で喜んでもらおうとする人もいる。そういった意味では、俺は単に音楽が好きなだけの人間だったんだよね。

望月:感覚的には、裏方に近かったんでしょうか?

織田:本当にそう。レコーディングの時に歌を歌うって事は、初めてやった時から「すごいね!」って言ってもらうことが出来たんだよね。でも、ステージ上でお客様を喜ばせるって事に関しては術が無かったし、意味がよく分からなかった。元々は「絵描きになりたい」って言っていたのが、作る物が音楽に代わっただけだったから、多分俺は今の時代だったら部屋でひたすら打ち込みで多重録音で曲を作る人間になってたと思うんだよ。
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でも当時はそれが出来なかったから、心のどこかに「仕方なくバンドをやろう」って気持ちがあったんだ。だから、ライブでぐいぐいとお客さんを掴まえていくだけの力は俺には無かったね。それに俺、当時「天中殺」っていう占いの本を読んだら、ちょうど天中殺だったんだよね(笑)。結局そのバンドは解散することになったのだけれど、本当に天中殺とか大殺界としか言いようのない出来事が色々とあったよ。

望月:バンド解散後は、どのような活動に打ち込まれたのですか?

織田:バンドをやるとなった時、WHYは3人しかいないからライブの時にはスタジオミュージシャンが必要だったんだけど、事務所は彼らにギャラを払ってくれなかったんだ。だから、スタジオミュージシャンのギャラは俺と北島がバイトをして得た金で払ってたんだよ(笑)WHYを解散した後、俺と北島は「織田哲郎と9th IMAGE」っていうバンドを組んで10代のドラムやベースの子を入れたんだけど、それは「バンド」って建前でギャラを払わなくても良いようにって思惑があったんだ(笑)。

#織田哲郎と9th IMAGE
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ともすれば、おじさんたちが若い子を騙して入れたと言われかねないような感じだよね。その後、ベースの子はBOOWYに入ったし、ドラムの子はBARBEE BOYSに入ったし、結構面白いバンドだったよ。

望月:BOOWYとBARBEE BOYSに入るということは、すごい実力のあるメンバーが集まっていたんですね。

#BOOWY                #BARBEE BOYS
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織田:最終的にバンドはレコード会社とかとのゴタゴタの中で解散することになってしまって、彼らには申し訳ない事をしたなっていう気持ちがあったんだよね。だから、彼らが他のバンドで成功してくれてよかったなと思うよ。

【「シーズン・イン・ザ・サン」の手応え】
望月:最初に他の人に楽曲を提供して、セールス的に成功したのはいつ頃でしたか?

織田:19歳の時に歌った「ポパイ・ザ・セーラーマン」が売れたものだから、その後、曲がシリーズ化したんだよね。その第三弾の曲を、俺が20歳ぐらいの時に書いたんだけれど、それが10万枚ぐらい売れたのが多分最初だと思う。あまり表立った俺の歴史としては、知られていないかもしれないけれど(笑)。もっとメジャーな曲で、最初にヒットしたものと言ったらやっぱりTUBEに書いた「シーズン・イン・ザ・サン」だと思う。

#「シースン・イン・ザ・サン」


望月:TUBEの3枚目のシングルですね。

織田:TUBEの1枚目と2枚目を書いたのは俺じゃないんだよね。その当時のTUBEはもっと歌謡曲っぽい感じの曲を歌っていたんだけれど、あまり売れなくて「このままじゃやばい」って言われていて。そこで「何とかならないか?」と俺のところに話が来て、書いたのが「シーズン・イン・ザ・サン」だったんだ。本当に当時のTUBEはセコいツアーとかをやって必死にあがいていた時期だったから、俺にとってTUBEは戦友のような意識があるな。

望月「シーズン・イン・ザ・サン」が出来た時というのは、「これはいけるぞ!」という手応えのようなものはありましたか?

織田:それなりに手ごたえはあったね。ただ、望月君も感じているとは思うけれど、曲が売れるかどうか
というのは曲の良し悪しだけで決まるものじゃないんだよね。色々な要素ががちっと組み合わさって、現象が生まれた時に初めて曲が売れるんだよ。曲の良し悪しだけで言えば、「シーズン・イン・ザ・サン」の前にだって「この曲は、絶対に売れるぞ!」と思ったものは沢山あったんだ。
ただ「シーズン・イン・ザ・サン」で初めて色々な要素が組み合わさって、「これは、いけるな」という感じがしたね。ゾクゾク感のようなものがあったよ。

【大ヒット曲の連発】
望月:織田さんはB.Bクイーンズの大ヒットなどもあり、90年代数々のヒット曲を生みだされました。その中でも特に思い出深い曲などはありますか?

#B.Bクイーンズ
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織田:あの頃は楽にヒットするであろう曲が作れていたから、逆に肩に力が入っていなかったね。

望月:ZARDを始め、書く曲書く曲が次々とヒットチャートに入っていましたよね。

#坂井泉水 (ZARD)          #相川七瀬
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織田:思い出深いといえば、曲というよりもプロデュースかな。ゼロから「どこに持っていくか」を考えて、作っていった相川七瀬のプロデュースはしんどくもあり、しんどかった分売れた時に嬉しかったね。

【楽曲紹介2】
望月:このあたりでもう一曲ご紹介頂けますか?

織田:4年前に、オリジナルとしては14年振りのアルバム「One Night」を出しました。その中から「明日へ」という曲を聴いてください。

#2 織田哲郎「明日へ」




【相川七瀬のプロデュース】
望月:相川七瀬は、織田さんが発掘されたのですか?

織田:あるオーディションで彼女を見かけたのが最初だったんだけれど、審査員は彼女に何の印もつけなかったのね。でも俺は「この子、面白いなあ」と印象に残っていて。ちょうどその頃の俺は「もっと、こういうロックが出来ないかな」と色々なアイデアが頭の中に浮かんでいた時期だったから、「この子で、ロックをやったら面白いんじゃないか?」と思って声をかけたんだ。だから、相川七瀬だけは本当にゼロから全てを作っていったね。

望月:デビュー曲の「夢見る少女じゃいられない」はいきなり大ヒットとなりましたね。

#「夢見る少女じゃいられない」


織田:実は「夢見る少女じゃいられない」は、すぐには売れなかったんだよね。じわじわじわじわと何カ月もかかって、あれはヒット曲になったんだ。やっと火が付いてきたかな?というような時期でも、チャートでは23位ぐらいまでしかいってなかったはず。続けて「バイバイ。」と「LIKE A HARD RAIN」を出したけれど、その時もまだあまり売れてなかった。

#「バイバイ。」        


#「LIKE A HARD RAIN」


ただ、チャートの順位がどうこうではなく、相川七瀬というアーティストへの期待が凄く高まっているなというのは感じていて。その後、アルバムの「Red」を出した時に、相川七瀬は爆発したんだ。アルバムを100万枚刷ったら、すぐに全国のCDショップで品切れになって。そうして「Red」は、最終的に280万枚ぐらい売れたんだよね。
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望月:いまでは考えられないような、物凄い数字ですね。

織田:いまとなっては「そんな数字、有り得るんですか?」と言われてしまうよね。

【プロデュース業と作曲業】
望月:プロデュースの仕事と作曲の仕事というのは、自分の中で分けて考えていらっしゃるのですか?

織田:プロデュースの仕事は、方向決めの仕事だよね。実は作曲の仕事をする時でも、「どういう方向に進むべきでしょうか」という段階から任される時があって、そういう時は「こういう方向に進んだら、面白いんじゃないか?」というのを提案したりするね。もちろん「こういう曲を作ってほしい」という依頼もあるし、そういう時はその中で仕事を全うするようにしてる。そういうのとは全く関係なく、「これ、良い曲だ!」というのを一人で部屋で形にする時もあるから、色々だよね。

【アーティストと職人】
望月:織田さんは、何かものを作る上で制約があった方が楽しいですか?それとも制約は無い方が好きですか?

織田:これは難しいところで、どちらにも楽しさがあるんだよね。だからこそ作曲家活動と自分のアーティスト活動を続けているのかもしれないと思うんだけれど。制約が全くない中で、自分は何をしたいのかを掘り下げていく作業には、苦しさもあるけれどやはり楽しさがあるんだよね。ただ、制約がある中で「ではどこに答えがあるのか?」を考えていく作業も楽しいんだ。あえて言うならば、自分を掘り下げていく作業と言うのは自分のアー
ティスティックな面で、制約の中でこそ燃えるというのは自分の職人根性かもしれないね。

望月:「職人」ですか。

織田:制約が難題であれば難題であるほど、燃えるという。CMでも何でも、とんでもない無理難題ってあるじゃない?(笑)

望月:ありますね。

織田:最初から、明らかに矛盾しているような要求だってあるわけじゃない。CMにしろ、主題歌にし
ろ。俺は最初の頃は、そういった要求に全て答えようとしていたから、物凄く苦労した。
でも、色々言ってくる人は「言ってみてるだけ」なんだっていう事に、ある時気付いたんだ。だから、皆が良いと言ってくれるような物を作れば、それでOKなんだと。だから、あまり一字一句人の言うことを聞いても仕方ないとは思うようになったね。
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例えば主題歌で「バラードが欲しい」という人が居る中で、アップテンポな曲を試しに持っていってみたら「これ、いいですね!」となったことが実際にあったんだよ。だから、「皆が良いと思えるものを、どうやったら作れるだろう」と色々な事を考えて、数式のように組み合わせて解を出す作業と言うのは、それはそれで好きだね。

【今後の織田哲郎】
望月:これからの織田哲郎は、どうなっていきますか?

織田:アーティスティックな作業も、職人的な作業も好きだという二本柱のまま進むんじゃないかな。人から無理難題を吹っ掛けられて、「その解決策は、これがいいんじゃないでしょうか」と解を出す作業が一つ。もう一つは、自分が音楽を長く続けてきている中で「いま、俺はこれが最高だと思う」というのを掘り下げていく作業。どちらも俺は好きだから、この二つを続けていく事になると思うな。

望月:是非、これからも素晴らしいメロディーを作り続けてください。今日のツタワリストは作曲家、音楽プロデューサー、ミュージシャンの織田哲郎さんでした。有難うございました。

織田:有難うございました。

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TODAY'S EISUKE MUSIC SELECTION